輪廻転生の話

輪廻転生の話

人の魂は輪廻転生するのかについても、「魂(霊)が存在するのか」という議論と同様に、仏教思想に基づいた概念であり、日本では、多くの人が疑いつつも、信じているのでは無いだろうか。

私は非常に宗教的な家に生まれ育った反動か、神様や霊の存在、魂の成長や輪廻転生、天国や地獄、天使と悪魔など、宗教的な概念については、「全般的に強い猜疑心」を禁じ得ない。歴史的に見ても、宗教とは、国家の統治や民衆の支配に利用されて来たからだ。統治に適するよう「改変」された部分や、地域的な側面も多い。

一方で、私自身が、心霊写真の被写体になり、普通の人が聞けば「青ざめる」ような「不可解な出来事」が、人生の折々で起きてしまっている以上、「魂(霊)の存在」も「神様の存在」も「輪廻転生」も否定出来ない。 何か自分に起きる度に、自分に自問自答し、何が正しいのか、又は、何が真実に最も近いのかを考えている。

だから、ここで語る「輪廻転生するか」についても、「仏教的な概念」とは別に、私の実体験や記憶に基いての「私の結論」である。もちろん、それが完全に正しいかは、物的証拠などで証明出来ない。ただ、「魂が輪廻転生する」と考えないと、私の実体験や記憶と辻褄が合わない。

生れた直後からの「記憶」

実は、私は、生まれた直後から、かなり鮮明な記憶がある。例えば、生まれた直後、私は泣かなかった。 しかし、私を取り上げた誰かにお尻を叩かれた。急に逆さまにされた記憶がある。その後は、為されるがままに、身体のあちこちを触られ、最後に、何かにくるまれた。そこから記憶が無いので、多分、失神したのだと思うが、非常にあわあわした事を記憶している。そこからは折々様々記憶が残っている。幼稚園の初年度の教室の場所も、度々、立ったままお漏らしして、「尿意をコンロトール出来ない情けなさ」を味わったことも記憶している。幼稚園では「同園児に殴られる」程のいじめを受け、父親と交渉し、最後は、1年半程、登園拒否していた。

その後、小学2年生くらいまでは、周囲の子供らは、前日に言っていた事を完全に忘れている事が多かった。ある日、同級生が「昨日さぁ」と前日の事を話し出したので、目を丸くして驚いたが、その頃辺りから、「会話が成立する」ようになった。大人になってから、幼児期の記憶があるか、折々、調査して来たが、通常はその位の年齢から記憶が始まるようだ。 幼稚園の記憶がある人は稀に居るが、生まれた直後の記憶があると言った人物には一人しか会ったことが無い。 なので、私の話は、そもそも信じ難いかも知れないが、私の家では、私の父も同じで、兄も2歳くらいからは鮮明な記憶があるようで、我が家は、そのような家系のようだ。ただ、世間的に見て、決して、一般的ではない。

そのため、私が「ビジョン」を見ていた「乳幼児の頃」の話を、「幼児は記憶が無い」と思っている方々には。相当に信じ難いかも知れない。しかし、私の乳幼児期の記憶は十分に鮮明だったし、「ビジョン」については、その後も「記憶を維持する」ために毎日のように思い出していた。大人になる過程での「記憶のすり替え」は殆ど無いと思う。

 

生れた直後からの「ビジョン」

上記、私の「乳幼児の記憶」について述べた上で、次に、私が生まれた直後から、大体2~3歳になるまで見えていた「ビジョン」について述べる。この「ビジョン」は、天井の暗いところを見上げると常に見えていたものだ。見えていた内容から、「前世」か「輪廻転生」に関わるものだと思っている。

これまでの人生、折々、乳幼児の頃に何か「ビジョン」の様なものを見なかったか調査を試みているが、今のところ、生まれた直後から記憶があると言っていたのは、三島由紀夫氏、アメリカの女優のダイアン・レインさん、それと「虚偽告訴犯罪音楽家の”崎谷健次郎」だけだった。まあ、虚偽告訴音楽家は、虚偽告訴する位なので、「基本的に嘘吐き」だろうから、当時、単に私に話を合わせただけかと思うが、彼を除いて、「乳幼児の頃の記憶がある人物」には、父と兄以外では、会った事がない。

私は、兄とは、自分の個人的な話をした事は殆ど無いし、兄からそういう話を聞いたことは無い。父も早くに他界したので、そのような話をする機会は無かった。「輪廻転生」に何かしらでも関係するような記憶があるのは私だけのようだ。

 

前世のビジョン

私の見ていた「ビジョン」は、「ビデオ」のようなものが幾つも並んでいるようなものだった。生まれて以降、天井を見上げていると(身体が動かせないので天井を必然的に見ていた)、「ビデオ」が自然と見えているような感じだった。前世の記憶については、時折、テレビやYouTubeなどで、「前世を語る子供」や、「年寄り」のようにしゃべる幼稚園児など、たまに見掛けることがある、自分の「直前の人生の記憶」を持って生まれて来る人は、それなりに存在するのかも知れないと思っている。私の場合は、サムネイル動画の様なものが、暗い天井にいくつも並んで、夫々に流れているような感じだった。

私は、生まれた直後から、何となく、自分の「身体の変化」についても良く観察していた。 頭も自分で動かせない麻痺状態から、少しずつ身体が動かせるようになっていったり、自分の手や腕の皮膚が少しずつ固くなっていったり、折々、急に変化して行くので、不思議だったからだ。例えば、水の入ったコップを親に持っていてねと渡され、親が手を離した途端に落としたことも覚えている。暫くすると、普通に持てた事もだ。

私が「ビジョン」を見ていたのは、幼稚園に上がる前までなので、多分、生まれた直後から2歳~3歳までだと思う。ある時、ふと、見えている動画の数が減っているのに気が付いた。今思うと、身体成長するにつれ、「ビデオ」は見えなくなって行ったように思う。

見えている数が減るのと同時に、「ビジョン」の見え方も変化して行った。最初は全部見えていた「ビデオ」が、「ダイジェスト版の動画」のように断片的になり、やがて「何枚かの写真」になっていった。 「ビジョン」は、列の先(遠くの方)から徐々に消えて行き、やがて何が見えていたかも思い出せなくなっていった。そして、ある頃から、急激に「見えなくなって行った」ので、私は非常に戸惑い、同時に、何となく「これは忘れてはならない」と思うようになった。それで、その時に見えているものを必死に記憶しようとしたが、急激に見えなくなっていったので、最初は「4-5枚だった写真」も、その頃には「2枚くらい」になっていた。

その後も、どんどん消えて行き、最も手前に見えていた2枚と、その次に見えていた2枚だけしか見えなくなった。この時の「全く思い出せない恐怖感」を今も記憶している。その後は、天井を見ても完全に何も見えなくなり、思い出せるのは、必死に記憶しようとした「最も手前」と「その次」の写真(映像)、1枚ずつだけになった。

 

「曼荼羅」の様な「ビジョン」

幼児期の記憶は、大人になるにつれて、様々な情報の取り込みで「歪曲」される。私も例外ではないと思う。そのため、何らかの写真情報から頭が勝手に「記憶を作った」可能性を疑ったが、「ビジョン」は生まれた直後から見えていたものだったし、幼稚園に入る前には完全に見えなくなって行った。外部情報からの影響があったとは思えない。

実は、記憶に残った2カ所の画像(写真)については、その後、実は、今も、探しており、「直前」のは、以前、あるドキュメンタリードラマで「非常に近い家」は見付けた。これも証拠などある訳も無いが、映像を見ていて「デジャブのような不思議な気分」になったのは確かだ。残念ながら、もう一枚の方は全く解らない。

私のビジョンは、概念的に「曼荼羅」に近いと思う。もちろん、形態は全く違う。しかし動画(=人生)が並んでいるという点では共通すると思う。こちらも「外部的な情報の取り込み」を疑ったが、幼少期、我が家には書棚に様々な宗教書があったが、神道なので「神様系のもの」が多く、仏教系である「曼荼羅の図」は置いてなかった。私が人生で「曼荼羅を初めて見た」のは、中学の時、京都奈良への修学旅行で行った何処かの寺院だったと思う。

その時は、内心、びっくりした事を記憶している。私の見ていた「ビジョン」とは共通するものがあったからだ。 だからか、「曼荼羅の図」を見て、何を示しているのか直ぐに理解出来た。「曼荼羅」については。「ビジョン」を私でも見るのだから、他の人が見ていても不思議は無いと思う。 「曼荼羅」が成立した頃は仏教が全盛だったので、2千年位前だろうか。誰が作ったのかは、勉強不足で知らないが、同じようなビジョンを見た者が、仏教の教えと融合させたのではないだろうか。仏教思想の人間が見れば、必然的に、ああなるのだろう。

曼荼羅は、「魂の輪廻転生の図」だが、「魂の成長段階」により、指導監督役の「仏様」が存在する。私の理解では、「一定のレベルに達していないと次の段階へ進めない」という発想だったと思う。 西洋系の一神教では、そもそも「死後の魂は最後の審判まで墓場で待つ」のが「死後のシステム」なので、本来は浮遊霊という発想は無い。仏教系の思想の人物でないと、同じビジョンを見ても、曼荼羅の発想にはならないだろう。

また、曼荼羅を描いた人物が、何歳の時に、あの概念を思い付き、または、あの「ビジョン」を見たのか解らないが、私の場合は、生まれた直後から約2年程度だった。私は、偶々、乳幼児の記憶を維持出来たので記憶にあるだけで、実際には、もしかすると多くの人が生れた直後に過去を見ているかも知れないのではと思っている。ただ、これまで出会った人の中で、生まれた直後から、又は、生まれる前からの記憶がある人に会ったことが無いので、検証は出来てない。しかし、「曼荼羅」が存在する以上、私と同じ「ビジョン」を見た人がいるのではないかと思っている。

 

崎谷健次郎の話を折々しているが、私の人生で唯一「生まれた直後の記憶がある」と言っていた人物だった。私は、こんな「サバサバした性格」だし、ストーカー以前に、「結婚している男」を延々と追い掛ける性格では無い。多分相当に高慢だし、自分の手紙やメールに返事をしない時点でOUTだ。そんな「私の価値の解らない馬鹿」を追い掛けて、人生の時間を無駄にする様な馬鹿では無い。

ただ、一方で、崎谷健次郎は、私には、色々と、興味深い点の多い人物である事は確かだ。あの男が、本当に「生まれた直後の記憶がある」なら、私のような「ビジョン」を見たかどうかは調査してみたいとは思っていた。ニューヨークでは、「吉國の復縁を勧める目的」で会いに行ったこともあり、結局、一日程度しか関わる時間は無く、翌日は、デートの約束を連絡も入れず勝手にすっぽかして音楽スタジオに入ってしまった。 帰国の朝に「一応、別れの挨拶にホテルへ行った」が、態度が「横柄で無礼」極まりなく、「マジで、いけ好かない野郎」だったので、親切な私としては、「一生心に残る別れのシーン」は完璧に熟し、そこで終わりにしたつもりだった。結果、本当に「記憶があるのか」も確認出来なかった。 この人物とも、「不可思議な事が多発」したが、「乳幼児の記憶」については、何か自分と共通するものが無いか知りたいとは思っていた。

 

「ビジョン」の内容=住んでいた場所?

さて 話を戻すが、生まれた直後に、私に、なぜあんな「ビジョン」が見えていたのかは、未だに謎としか言いようがない。病院ではそんな映像を見る機会など無く、自宅へ戻った日のことも記憶している。どう考えても、テレビなどの情報が入る状況が無い。私が見ていた「ビジョン」は「完全フルカラー」だった。白黒テレビが来たのは2歳以降だったと思う。テレビの映像を見て、脳が錯覚を起こしていたとも考え難い。

当初は、かなりな数の「ビデオ」が天井の奥の方へ続いて見えていた。最も手前の映像(直近)で見えていたのは、「芝生のある平屋」で、芝生の緑色がとても綺麗な「白っぽい家」だった。日本の家と違い、少し横に広い家。アメリカのどこかの郊外のような感じだった。「その次」なので、「その前の人生」の写真は、「狭い石畳の路地のような場所」だった。通りの両側が石造りの建物になっており、建物の入口が階段になっていて、そこに「年寄りの男性?」らしい人が座っていた。こちらは、イギリスなイタリアなど、石畳の道や石の建築物の多い国の都市部の通りに近い感じ。インドやトルコの都市部にも似たような場所があるように思う。私の記憶は、私が「住んでいた場所の記憶」では無いかと思っているが、取り敢えず、日本では無いのは確かと思う。

もし本当に「魂が輪廻転生する」なら、私は、直前は海外(アメリカ人)だったかも知れない。私の「ビジョン」が、前世までの「魂の記憶」だとすれば、魂にも「記憶は残る」のかも知れない。例えば、全く遣った事が無い事でも、非常にうまく熟す人や子供が不思議と存在する。まるで「初めから解っている」様に、簡単に出来てしまう。同じ兄弟姉妹でも、「簡単に出来る」子供と「中々出来ない」子供がいる場合がある。単純に、知能では無い「何か」を感じる場合は少なくない。

私の場合も、「前世の記憶」と関係あるかは不明だが、私は、初めから「英語の発音が非常に良い」ようで、子供の頃に先生には度々驚かれた。留学期間は1年程度なので、英語力が高いとは言えないだろうが、発音に関しては良く褒められる。例えば、海外からの電話で「面識のない欧米人」からは、「本当に日本人なのか?」と何度も尋ねられたことがある。音声再現能力が高いだけかも知れないが、同じ遺伝子を持つ兄は、8年アメリカで生活していたが、発音は決して良くない。

世の中、音楽や絵画の才能などでも、訓練や器用さとは関係無い部分で、「初めから出来」る=「持っている」と感じる人がいる。この差はなぜ生じるのかは科学的には証明出来ないが、もし「魂の輪廻転生」があり、兄弟でも「前世での経験が違う=魂の記憶が違う」とすれば、多少は説明が付く気がする。

例えば、前世までに、何回も人生を芸術家として過ごし、その記憶を「魂の記憶」として継続していて、新しい人生でも同じような生き方を継続するとすれば、大人になり意識的には解らなくとも、無意識で「覚えている」ことになる。同じ兄弟姉妹でも、前世まで別の仕事だった魂とは、歴然たる差がついても不思議は無い。

「魂(霊)の存在」については、死の直前と直後では、体重減少が起きると言われている。これは実験した人がいたようだ。魂=電気エネルギー体とすれば、質量保存の法則から、質量の減少が起きるかも知れない。一方、「魂が輪廻転生する」ことは残念ながら、現代の科学としては全く証明出来ていない。これは、あくまでも「仏教思想の延長線上」でしかない。

しかし、私は、自分の実体験として、上述の様な「ビジョン」を見ていた「記憶」がある。単なる一瞬の記憶ではなく、数年続いていた記憶であり、「忘れてはいけない」と焦ったような記憶だ。その事実は変えようがない。そして、その「ビジョン」は、非常に、「曼荼羅」のコンセプトに近い。私は、これまでの人生で、折々、乳幼児期の記憶のある人物を探しているが、この世に既に「曼荼羅」が存在するという事実を考えると、世の中には、私と同じような「ビジョン」を見た人間が居たことを示すと思う。ファティマに出現した「光るもの」を、キリスト教徒が「マリア様」だと信じるように、そうした「ビジョン」を仏教徒が仏教と融合させたとしても不思議は無い。実際には、どうなのだろう。

他に、同じような「ビジョン」を見た人は居るのだろうか?今回、LGBTの話をする前提として、この話を書いているが、もし願わくばだが、せめて「乳幼児の記憶がある人物」が見付かると良いかと思っている。 こうした話は、誰も覚えていないので、「嘘が吐き易い」が、話が本当なら、私と同じ状況を辿ったと思う。

「魂(霊)は存在する」との結論

私の心霊写真については、既に公開した。その写真と何が起きたかを読めば、単なる「偶然では片付けられない」事態だった事はご理解頂けるだろう。心霊体験については、今後も、実際の体験をブログで折々公開するが、私は、そうした自分自身の心霊体験から、どう考えても「魂や霊は存在する」としか考えられない。

「輪廻転生する」との結論

このブログで述べたように、私は、生まれた直後からの数年、天井の暗いところを見上げると、「動画(映像)」が幾つも並んで見えていた。どれも、「どこかの場所」の映像だったので、私が見ていた「ビジョン」は、私が前世までに住んでいた場所の「魂の記憶」なのではと思っている。

幼稚園に上がる前に、ほぼ完全に消えていたが、人間は「魂の記憶」を持って生まれるが、肉体と結合し、肉体の記憶機能(脳)が発達するに従い、「脳の記憶」が優勢になるのではと考えている。

人間は、他の動物と異なり、脳が完全に機能する状態で生まれない。脳が機能しないので、身体が全く動かせないし、言葉も発する事は出来ないし、馬や牛の様に、生まれて直ぐに歩く事は出来ない。生後6か月位までは「頭が座らない」と言うが、確かに、私も首を動かす事すら出来なかった。当然、これは、新しい肉体の「脳」が十分に発達していない状態である証拠だろう。だから、新しい肉体での「脳」が形成するまでは、前世までの「魂の記憶」は維持され蘇るのでは無いだろうか。

そして、脳が発達し、歩行や会話や思考や記憶が可能になる(=幼稚園に入る前)までに、「魂の記憶」よりも、「脳の記憶」の方が優勢になり、その後も成長に伴い、今度は「脳の記憶」のみで生きるようになるのではと思う。

「魂の記憶」の話

一方、魂の記憶は、「魂としては継続」しているため、初めての事であっても、以前遣った事があるように感じたり、なぜか簡単に出来たりなど、なぜかは「理由は解らない」が、無意識に「記憶の継続」が起きるのでは無いだろうか。

私は、仏教は学習はしているが、「純粋な仏教徒」では無いので、「曼荼羅」と似た「ビジョン」を見ても、「仏様の導き」とは思っていない。守護霊なり、自分と縁のある霊などが守護するのかも知れないが、私は、「人がこの世に生まれる意味」とは、夫々が、自分の魂が、自分の魂として「完成する」ために、自分に必要な「課程」を「実体験を通じて学習すること」だと思っている。

例えば、ピアニストで有名になりたい「魂」がいたとする。「有名になりたい」は「一種の欲」だが、一度、本当にピアニストになり、有名になり、その人生を経験すれば、自分の中で「その状態」を理解し満足するだろう。次の人生でも、ピアニストを目指すかも知れないが、一方、別の楽器を学ぼうとするかも知れない。そうして、何度も人生を重ねて、最後に、音楽家として「自分の完成」を目指すのではと思う。そして、願いが叶い、そうした人生を何度か繰り返し理解すれば、やがては飽きて、次の人生では、別の生き方を選択しようと思わないだろうか。

そうして、最初は、「〇〇になりたい」という目的での人生が、「自分が○○の役割をすることで何らか意味が生れる人生を過そう」と思うようにならないだろうか。私が、神道を自分の「宗教理念」として選択した理由は、神とは何か?神の役割とは何か?を考えた場合、やはり「救済」では無いかと思う。この「救済」は、単に相手にとって「救い」になる事だけを意味しない。「助けない」とか「苦労させる」ことが、結果、相手にとって「真の救済」である事がある。

誰かを「救済する」ための「判断」とは、ある意味、本当に困難至難な課題だろう。相手に良かれと思っても、全く逆の意味を持つ事がある。だから、「救済するかの決断」は、「どう救済するかの方法論」の以前に、「相手にとっての本当の救済とは何なのかの判断」をすべきもので、人間には出来ない。他を救済するより、自分が救済されたい人が殆どだろう。だが、「神道の道を歩む」とは、いつかは「神様の仲間となる」ことを意味する。「救済」とは、「神様という存在」にとっては、最大の課題とも言えることだろう。 人間が神様に求めるものだからだ。

そこへ向かうために、人間としての「こうなりたい」「ああなりたい」という「希望という名の欲」を、自分で制御出来るようになる必要があるだろう。なので、「輪廻転生」で新しい肉体へ入り、幾つもの人生を経て、人間としての「こうなりたい」「ああなりたい」を実際に経験して、自分は最後にどうあるべきかを自分で導き出すのではと思う。その過程を経なければ、誰かを「救済する」という課題に対し、「本当に正しい答え」を導き出す事は不可能だろう。

私は、純粋な仏教徒では無く、「神道の行者」であるので、「曼荼羅」的な「輪廻転生」の途中で、段階別に「権威ある仏様」が助けるかは知らない。ただ、この世には、神様の様に、肉体と結合せず、「霊体のみで存続出来るエネルギー体」が存在するようなので、同種の霊体が、夫々の魂に対し、所謂、「守護霊」として見守っているかも知れない。私も、バイク事故もそうだが、折々、「助けて貰った」ような事が多いし、周囲には「誰かいる感じ」は常にある。その辺りは、私は「霊は見えない」ので、何が本当かは不明だが、「守護霊」とか「守護神」は、流石に、否定出来ない。もちろん、見た事はないので、単なる「思い込み」であることも否定しない。

上記が、私が「輪廻転生がある」と考えている理由だが、私の場合は、自分が「不思議なビジョン」を見ているので、「曼荼羅」で示されるような事は起きているのではと思っている。

「LGBTの話」をするために

「 魂(霊)の話」も「輪廻転生の話」も、私としては、「LGBTの話」をするために、自分の意見の根本発想として述べるべきとの認識から、今回、ブログに書いた。単なる宗教的な背景で、例えば、「キリスト教では駄目」とか「仏教的にどう」とかではなく、自分の人生の経験を前提としての発言である。

私は、実際に、ああした「手の無い心霊写真」の「被写体」になる人で、他にも色々あるので、上記のような結論に至っているが、これについても、科学的に完全に証明された「 魂(霊)の話」も「輪廻転生の話」もことは承知しているし、普通に考えたら、「飛んでも無いキチガイ話」であることに変わりは無いし、それは良く良く理解している。その上で、「 魂(霊)の話」も「輪廻転生の話」も、他に説明の仕様が無いので、そう述べていることはご理解頂きたい。

最後に、私は、他に、同じ経験や体験をした人がいないか非常に興味を持っている。今回、私の「不可思議な話」を公開するのも、これまで「変な人」や「異常」だと思われたく無くて、自分の事を伏せて来たが、世の中には、本当に「普通に霊が見える人」もいるようだし、何が本当なのか私も知りたいと思っている人の一人である。単に「錯覚」や「脳の病気」であれば、むしろ気が楽かも知れない。当然、「本物の統合失調症の患者」には、「病状」や「症状」についてはインタビューしまくった。精神疾患の場合の多くは、心霊体験と同じように、「誰か」が見え「誰かの声が聞こえる」らしい。

私の場合は、バイクでツーリング中も、普段も、気分が落ち込んだ時も、基本、一緒。精神状態も栄養状態も全く関係無いし、私に起きていること、例えば、「手の無い写真」とか「不可解な交通事故」とか「なぜか滝の様に水が落ちる家」とか「突然、電車が止まる」みたいな「具体的な経験」は無いようだった。

どちらにしろ、「感じる」とか「見える」は、「脳の感受性」や「脳のホルモン分泌機能」とは関係があるのかも知れず、長年、非常に興味深いと思っている。

 

 

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