岡本太郎展へ行きました。

岡本太郎展へ行きました。

昨年2022年12月、上野の美術館で、岡本太郎展が開催されていたので行って来ました。岡本太郎氏は、私が最も尊敬する芸術家です。岡本太郎氏は画家でもあり彫刻家でもあり鋳物工芸家でもあり、他にも様々な形式の表現手法を使われた方ですが、一貫して表現していたのは「古来の日本」だったと思います。ちなみに、私は、画家としては、東山魁夷さんが一番好きですし、言うまでも無く、日本を代表する芸術家ですが、作品としては「美しい日本の景色」を描いていた方と思います。お二方とも、戦後、徹底的に日本文化が否定される中で、「我々は日本人だろう。間違えるな」と、言葉に出来ない強い思いを作品を通じて叫んでいるかのように感じます。今の日本では想像も出来ないでしょうが、昭和時代は、日本文化が本当に否定された時代でした。

私は、音楽サイト以外にも、「日中戦争の真相」というサイトを運営しています。これは、日本の過去の戦争に関する「歴史的な間違い」を訂正し、日本の名誉回復を目指す目的で、以前の「南京大虐殺の真相ブログ」の拡大版です。結論は、真実は、これまで日本人が信じ切っていた様なものでは無く、太平洋戦争も原爆投下も大空襲も、日本は「冤罪」を着せられ、本来無関係だったアメリカに不当な攻撃を受けた結果でした。アメリカも、中華民国の蒋介石と韓国の李承晩に騙され、多くの犠牲者を出しましたが、日本が敗戦したという理由で、結局、「日本が全て悪かった」という歴史になってしまいました。

岡本太郎氏も東山魁夷氏も、明治の生まれであり、日本が誰とどういう理由で戦争に至ったか「本当のこと」を知っていたといえます。これは、私に歴史雑誌を残してくれた祖父も同様だったでしょう。私は、昨年、ようやく、過去の戦争全般について「真実」を日本人へ伝えるよう動き出しましたし、私のサイトを読めば、これまで学校で正しいと教えられて来たことが、「真っ赤な嘘」だったことは理解出来るでしょう。それを知ってから、特に、岡本太郎氏の作品を見ると、岡本太郎氏の「やり場のない怒り」の様なものが感じられて来ます。太陽の塔では、大阪万博の華々しいお祝いムードの中、赤と白の身体に付いた大きな「白い顔」は「不愉快そうな顔」であり、一方、裏側は「黒い顔」で「嘆き」に近い無表情。太陽の塔のトップには、太陽の象徴の様な「金の顔」がありますが、その目は「空」であり、晴れた日には青い空を通じて、「青い目」に見えます。前面の赤い線は、上から流れる血の跡のようにも見えます。要は、「青い目」=アメリカが「頭」に座ったのが、今の日本だろうとでも言いたいような像です。

私が当時のアメリカ政府関係者だったら、撤去命令が出ても不思議は無いくらい、非常に嫌味な作品だと思いました。私は戦後、アメリカ文化が全てのような風潮の中、学校では「日本が全て悪い」と洗脳教育を受けて育った一人です。一方、戦争経験者の大人たちが、アメリカやイギリスを鬼畜と言い、韓国(朝鮮)や中国を毛嫌いしていたのも知っています。今は、私の周囲にいた明治や大正生まれの人々が、なぜそこまでの表現をしていたのか理解出来ますし、岡本太郎氏が「太陽の塔」をああした表現で作った理由もとても良く理解出来ます。当時、芸術家はそれなりに居ても、誰一人として、あそこまで、アメリカに「不屈の抗議」をした方はいなかったのではと思います。多分、今も、殆どの日本人が、あの塔を見ても、本当の目的も理由も理解していないでしょう。本当の歴史を知らない限り、本当の思いは理解出来ないのではと思います。

他にも、「坐ることを拒否する椅子」も、本来の存在を否定される存在であり、本来の日本が本来であろうとすることを拒否されている状況を象徴しているように感じました。一見とても綺麗で奇抜なのですが、座ろうとすると、上手く座れないし、椅子によっては痛い。日本人に「今の異常に気が付け」と言いたかったのかと感じてしまいました。当時も今も、引き続き、それ程大きく変わっていない「日本人の状況」を思い、思わず唇を噛みたくなる思いがしました。椅子とは「一時腰をおるすだけのもの」と言葉が残っているようです。岡本太郎氏の中では「戦いは続いていた」のかも知れません。

 

実は、私は幼稚園で虐めに遭い、家に押し掛けて来る苛めっ子から逃げるために、幼稚園が終わった頃になると、上野の美術館や博物館などへ入り、身を隠していました。幼稚園児で文字は解らないので、作品そのものから「思いを感じる」癖が付いたようです。有名無名に関わらず、作品には「意思や意図」が有るものと無いものがあり、有るもの中には強弱があります。一人ぼっちで余りに孤独だったので、それが誰かと話す代わりだったかも知れません。その後は、高校一年で父と死別する位までは、あちこち行っていましたが、ある時期から殆ど行かなくなりました。岡本太郎氏の作品は、非常に有名な方ですが、展覧会へ行ったのは、人生で今回が初めてです。

古来の日本を求め、縄文時代にモチーフを得たような作品も多く、原色の使用も、陰陽五行の色を自分の表現の原点としたのかも知れません。絵画とは、そもそも、現在の写真であり、画像による記録です。写実やリアリティが重視されました。非常に長い年月、画家は目が良いのが条件でした。印象派であっても、目の悪い画家か、目が悪くなった画家が見た世界そのものです。写真機の発明と普及で、絵画も方向性が精神性や内面の表現に焦点が移って行き、岡本太郎氏もそうした方向性は向かった芸術家の一人と思います。

私の中で岡本太郎氏の印象で強く残っているのは、セイコーアルバとかいう時計の宣伝で、「時計に名前が有るなんて」と言った言葉です。時計は日常品であり、芸術作品(意図や意志を持つもの)では無く、それまでは「型番」で認識するものでした。その辺りから、商業製造品と芸術作品の境界線がどんどん曖昧になって行った気がします。作品は大量に生み出されますが、意図や意志や目的の見えない作品もとても多くなったように感じます。

芸術作品では、作品の題名(名前)は、意図や意志や目的を正確に伝えるためにあるもので、私はそれがテーマだと思ってます。ですから、題名から作品は発展するものという認識です。昨年の展覧会で見た作品の中で、印象に残ったのは「愛憎」という作品でした。右が男性、左が女性のようで、怒っているような、笑ってもいるような、泣いてもいるような、どちらかというと女性の愛憎を描いたような感じもします。

憎しみは愛しさが無ければ生まれず、愛が深いほど憎しみも強い。それでも、結局は、繋がっていたい思いが頭の中で渦巻き爆発するのでしょうか。他の作品も、どこか「おどろおどろしい」というか「不気味」な印象が多いですが、そうして「色々な感情が重なり合い、うごめき合い、それが「人の煩悩」であり、その中で揺れ動くからこそ、それが、ある意味、生きているという事なのかも知れません。

人生なんて、いつ終わるか解らないし、次の機会があるか解りません。久しぶりに出かけて、とても充実した時間を過ごしました。

 

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