ツインレイの話ーその1

ツインレイの話ーその1

母が他界し、その衝撃からは依然回復出来ていない。LGBTの話などブログも一向に進んでない。一人で居ると気分が落ち込むが、ブログを書くことが「癒し」になっていると思う。来月には仕事に復帰しなくてはならない。それまでに書きたいと思っていることを書いておこうと思う。

私は「霊力の有る者」だと思っているし、偶然では説明出来ない「不可思議な事」が実際に起きるが、その一つとして、思い切って「ツインレイ」について書こうと思う。

事件サイトも公開し、いい加減、私がストーカーでは無い事は世間の方々もご理解頂いていると思う。なので、この発言で、また「ストーカー冤罪」の要因になることは回避したいが、結局のところ、結論からすると、私は、崎谷健次郎と私は「ツインレイの関係」だと思っている。なぜそう思うかは、今後、「ツインレイ」についての説明の中で、段階を追って説明するが、崎谷健次郎との間には、「ツインレイ」とかいう「普通では有得ない話」が、単なる「おとぎ話」だと笑えない程度に、余りにも多く合致する。

例えば「衝撃的な出会い」。崎谷健次郎と私はニューヨークで出会ったが、当時、崎谷健次郎は私の湯島の自宅の目の前に住んでいた。それ以前に、前年、家の前で2~3回は出会っている。知人に外見が酷似していたので、本人かと思った。余りに驚き、立止まって暫く見入るほどだった。崎谷健次郎も覚えていて、当時の歌にもそんな歌詞がある。自宅の前に居た人と海外で出会うだけでも十分に衝撃的ではあるが、実は、それ以上に、まるで「もう一人の自分に会った」感じだった。この感覚は言葉では伝えようが無い。

人というのは、「偶然」で片付けるには、余りにも「不可思議な事態」に遭遇すると、結局、答えを見出すまで「囚われる」ものだろう。私も、長年、なぜこんな不可思議な偶然が起きるのか答えを探して来た。「出会い」とは一人ではなく、二人で出会うものだ。だから、結局、私が理由を求めて「囚われて来た」ように、同じ経験をした相手も「囚われて」しまうのだろう。だから、「ツインレイのおとぎ話」の様に、長い長い「サイレント期間」があっても、何十年会わなくとも、相手のことが常に頭の中にあり、決して忘れることが出来ない状況が生まれるのかも知れない。

このブログを崎谷健次郎が読むかは解らないが、「ツインレイ」について情報を投げてから5~6年経っている。その間、正しい情報を得て、多少は内容を理解したとすれば、崎谷健次郎も私と同じ結論に至っているのではと思う。

ツインレイと使命

「ツインレイ」であれば、何かしら二人で実現する「使命」があるらしい。私は当時「市ヶ谷に爆弾が落ちる」夢を2回立て続けに見た。予知夢だと思った。だから、それを回避するために「南京大虐殺の真相」ブログを始めた。当時は、特に「日本と韓国の立場を逆転させる」ように動いた。日本の名誉回復は私の使命とは思っている。

私は崎谷健次郎に協力を求めたが、断られたので、自力で戦っていた。米朝会談まで行ったので、長年のストーカー冤罪を晴らそうと動き出したが、崎谷健次郎が人の話を一切聞かず、一方的に虚偽告訴し警察沙汰に発展させてしまった。私は逮捕送検され、冤罪を着て、誹謗中傷にあったが、一方で、結果的に、「南京大虐殺の真相」ブログの内容が、テレビ報道などで世間に広く紹介されることにはなった。

崎谷健次郎にしろ、警察にしろ、フジテレビにしろ、「間違った行い」をした事は事実だ。しかし、一連の事態で、結果的に、私が望んだように、「日本と韓国の立場を逆転させる」方向には相当進んだと思っている。「こじ付け」半分かも知れないが、崎谷健次郎の虚偽告訴犯罪のお陰で、「日本の名誉回復」に向け、多少なりとも前進したのではと思う。

本人は意図してなくとも、所詮「偶然」にしろ、少なくとも、私の「使命」の実現に向けて「十分な協力」はしてくれたかも知れないと思っている。それで、「ツインレイ」の場合は、片方を潰せば、もう片方も同じ様に潰れるらしい。要は、相手を傷付ければ、自分を傷付けることになるらしい。確かに、冗談ではなく、そうなっているのではと思う。

では、「ツインレイ」の話に入る「前段階」として、2019年の事件について改めて「ツインレイ」的な観点で見直してみたいと思う。「ツインレイ」については「間違った情報」が非常に多い。次のブログからでも、サナンダのメッセージも含めて、一度、私の理解を書いておきたいと思う。これは、最終的には、LGBTの話にも通じると思っている。

ストーカー被害が長期化した本当の理由

通常のストーカー案件であれば、被害を受けてから半年~数年以内には、警察や弁護士など具体的な解決を求めるものだろう。それが2019年時点で27年もが続いていた理由は、結局は、私が崎谷健次郎を愛していて、崎谷健次郎もまた私を愛していたからに他ならない。

だから、お互いに「相手が自分にストーカーしている」と思いながら、相手をストーカーとして警察へ突き出す事も出来ず、かと言って、直接的に相手に会いに行き「結論」を出す勇気も無く、お互いに「ストーカー被害」を限界を超して我慢していた。その上、お互いに「相手に愛情があるから」こそ、「ストーカーする理由」として、「相手が自分を愛している」と期待し、心のどこかで、お互いに「復縁」を期待していたと思う。

「ツインレイ」は「もう一人の自分」同士なので、同じ発想で、同じ反応になり、結局、同じように苦しんでいたのではと思う。今だから、こうした客観的な心理分析も出来るが、私は自分の被害は認識しても、崎谷健次郎側の被害は想定していなかった。だから、当初は、崎谷健次郎も嘘を吐いているか、自分のストーカー行為を隠ぺいする為かと考えた。実際、「事件の表向き」の「動機」としては、どちらか、又は両方になると思うが。

一方、実際に、崎谷健次郎が「被害届」を出し、更には「刑事告訴」したという事は、「崎谷健次郎には自分がストーカーしているという認識が無い」または、実際に「ストーカーしていない」と言えるだろう。自分が不審電話していれば、警察では、普通なら、確実に、バレる。だから、崎谷健次郎が自分でストーカー電話をしていたのなら、警察へは行かず、弁護士を立て、私にこっそり示談を申入れただろう。私は、それを想定して、最初に「弁護士を立てる提案」をしたのだが、「思い込んでいる馬鹿」は「多角的に考えない」ので、私の話を一切聞かず、警察沙汰に発展させた。ただ、これにより、崎谷健次郎は「私にストーカー行為はしていない」という仮説が成立したと言える。

当然、私は当初から「警察沙汰」を想定して、直接接触の前に、自分の無実の証拠は事前に確保していた。だから、結局、「崎谷健次郎が虚偽告訴犯罪を犯す」という結果になることも解っていた。私の不起訴で、崎谷が起訴になるので、検察には私が「和解収束」をお願いし、検察は崎谷健次郎に「私に示談の申入れをする」よう勧告した。崎谷側の弁護士が「破談」させたので、現状は「未検挙の虚偽告訴犯罪者」である。

私が「嫌疑不十分で不起訴」になった理由は、私の携帯と自宅に掛かる不審電話の発信元が、結局、崎谷健次郎の携帯か事務所か、いずれにしろ、崎谷健次郎に関わる番号から発信されていたことが、検察の捜査で発覚したからだ。

不審電話は、毎年、出会った日である6月13日に必ず掛かっていた。それで私は崎谷の仕業だと思ってしまったが、崎谷健次郎が掛けていないなら、この日に掛ける人間はこの世で一人しかいない。私を崎谷に紹介した元妻韓国人の吉國一己だ。

偽ツインレイの存在

ちなみに、「ツインレイ」的に見ると、吉國一己は「偽ツインレイ」である。崎谷健次郎に言わせると、吉國一己は、私と外見や声がそっくりらしい。吉國が「崎谷君が、私と「生き写し」だと言っていた」と言っていた。

同じように、私の側にも、崎谷健次郎と「生き写し」のような男性がいた。余りにも酷似しているので、家の前で立止まって暫く見詰めてしまった。「ツインレイ」的に見ると、その男性が私の「偽ツインレイ」だと思う。それも内面的には、「もう一人の吉國一己」のような人間だった。

吉國に言わせと、私は崎谷健次郎にそっくりで、カフェで話をする度に頭を抱えては、「崎谷君と話しているみたいだ」とか「崎谷君と同じことを言う」と連発していた。実際に本人に会ってみたら、「そっくり」を通り越して、まるで「もう一人の自分」だと思った。結局、1日しか一緒に居なかったし、じっくり会話した事も無かったが、一緒にいると、相手の「脳と連動している」感じで、何も説明しなくても「相手の思考や行動理由が解ってしまう」ので、「会話が不要な存在」だった。この感覚も非常に衝撃的だった。

あれから30年近く、ほぼ全く会っていないが、2017年に、25年振り?に目の前に立った時も、不思議と、やはり「もう一人の自分」だと思った。ただ、まるで「更年期障害の中年のおばさん」のように、突然切れて、ぎゃあぎゃあ「わめき散らし」ながら走って逃げて行ったので、自分の「勘違い」か「本当にそうなのか」は十分に観察出来なかった。

私は、外見とは裏腹に、「非常に冷静な人間」で「無駄な行動や発言はしない主義」だ。実名告発ブログも、初めから「確固たる理由と目的」があってやったし、紆余曲折あったが、結局は、予定通り「自分の無実を証明する」という目的は十分に果たした。無駄な事は何一つしていない。そういう点では、当時の崎谷健次郎は、異常なほど「真逆」だった。私のどんな一言に「あそこまで異常に切れた」のか、未だに意味不明だが、感情的で不要な行動が目立った。

最終試練

「ツインレイ」的に言うと、2019年の事件は、統合前の「最終試練」というところになるのだろうか。ニューヨークでの極めて「不可思議な出会い」の後、非常に長い「サイレント期間」を経て、統合前の「最終試練」らしき事態も起きたように思う。あの事件を経ても、私の愛情は結局変わる事は無かった。私はあの事件を通じて、崎谷健次郎に「絶対的に愛する人間がいる」ことを示したかったのかも知れない。崎谷健次郎がどう思っているかは崎谷健次郎の問題なので不明だが、あの事件で、なにか成長し、理解出来たのだろうか。

正直、2017年の時点では「単なる馬鹿ガキ」、2019年の時点では「人の話を聞かないアホ」。仮に「ツインレイの話」が実際に起きるとして、もし人と人が「統合」という言葉、英語では「Integration」だが、そうした精神状態に至るとすれば、お互いが同じレベルの精神状態で無ければ不可能だと思う。片側が「更年期障害の中年ヒステリーなおばさん」のような人間性では有得ない。

「ツインレイ」の話で言っている事は、夫々に「精神レベルを高める」必要があるということ。精神的に大きな格差があるなら、直接関わっても意味が無い。なので、自分の意思とは関係なく、全く連絡も出来ない状態に陥る。その方が、自分の問題の解決に集中出来るからだろう。

今後、偶然でも何処かで会うかは解らないが、流石に、今度は「私をストーカー」だとか大騒ぎは出来ないだろう。よく男性が、騒ぐ女性に、「兎に角、話を聞け!」と怒鳴るシーンがあるが、私の心境そのものだった。

仮に本当に「ツインレイ」であるなら、それ以前に、何か「私と縁のある人間」であるなら、「この馬鹿男の成長」の為に、私から会いに行くことは死ぬまで無いだろうし、私から会いに行ってはいけないと思っている。2017年には、「ここまで酷い」と思わず迂闊に会いに行ったが、「更年期障害」としか言いようが無い始末だった。結果、虚偽告訴犯罪に及ぶが、自分のアホ振りを反省しろとしか言いようが無いし、この男にとっての「人生の課題」は、何より、自分の「意思の力」で動くことだろう。私は「準備は出来ている」と思うが、自分の「人生の課題」があるなら、自分で消化しなくてはならない。もし何らかでも接点が出来るのであれば、崎谷の課題が終わってからだろう。

結論としては、崎谷健次郎という「大馬鹿男」の「人生の課題」は、自分の「意思の力」で動くこと。要は、自分がやった「大馬鹿な行為」について、「自分の意思」で、私に謝罪に来ることだろう。だから、その前に、自分の稚拙さと幼稚さをきちんと理解し、自分がやった大馬鹿な行為を反省し、人間として「正しい道」へ向かう決意が必要だと思う。その心境に入れば、その「覚悟」として、自分の「けじめ」として、私に謝罪に来るだろう。それが出来ない以上、関わってはいけないと思っている。

一方で、既に随分前にその「予知夢(ビジョン)」は見ている。現実になるかは解らない。それ以前に、今世で再び会うかも解らない。全ては、崎谷健次郎の成長に寄るだろう。私は、少なくとも「更年期障害のヒステリーおばさん」のような人間には、二度と煩わされたくないし、そんな調子では、私は耐えられない。そして、予言のようだが、結局、私に直接謝罪に来れるかが、崎谷健次郎の今後の明暗を決めるだろう。

何の反省も無く、引き続き「更年期障害のヒステリーおばさん」であれば、今後は、どん底のどん底のどん底を味わう人生を送るようになるだろう。そうして、人生の最後までに、「人に対する感謝の心」を学べと思う。「感謝の心」があれば、どんな相手に対しても「思慮を以て」接するようになる。私の様に「非常に冷静な人間」として生き、「無駄な行動や発言はしない」ためには、自分の目と耳で、様々な起きることを、自分で事実確認するようになるだろう。「正しい判断」には、正確な情報が不可欠だからだ。仮に「相手がストーカーだ」と思ったとしても、今回の様に「誤解している」可能性もある。いきなり憎悪をぶつけて警察へ行くような「陰湿、かつ、迂闊な真似」は慎むようにはなるだろう。

そこへ至るのが「最終試練」の意味かも知れない。

吉國一己との関係について

私のことについては、吉國一己が、崎谷健次郎を自分の良い様に誘導するため、ある事無い事、でっち上げては吹込んでいたのではと思っている。その根拠としては、実際に、私をストーカーだと誤解したし、吉國の「復縁手口」については、吉國本人から直接私が諸々聞いている。崎谷と浮気相手の間に「誤解が生じる」ように、両方に「大嘘を吹込む」のが手口だったようだ。だから、自分の女友達を崎谷に紹介する必要がある。私も「親友」のような関係になり、結局、「復縁手口」に利用されそうになった。だから、何を大嘘言われているか解ったものでは無いと思っている。

結局、2019年の事件は、崎谷健次郎と関わったことが大きな原因だが、その更に根底の原因としては、吉國一己との出会いがあったと思う。言っておくが、私は「崎谷健次郎のファン」では絶対的に無い。崎谷による公式サイトでの発表で、私に関する「誤った情報」が散乱したのは極めて心外なので、彼女とのどういう関係だったかを、ここに記載する。

吉國からは「私がファンだったので、紹介してくれと必死に泣き付いた」とでも、大嘘を吹込まれているのではないだろうか?そういう「大嘘」を信じていたので、テレビでも公式ブログでも、「私が元々ファンだった」というような「有得ない大嘘」を述べたのではと思う。

崎谷健次郎が、このブログを読むかは解らないが、兎に角、自分の目と耳で事実を確認する習慣が欠落している人間である事は確かだ。だから、一度、吉國との事に付いて、私の方から「真実」を述べておきたいと思う。本人に直接話せれば良いが、ああいう卑劣な「虚偽告訴事件」を起こしているし、私は二度と「ストーカーの濡れ衣」を着たくない。そのため、自分のブログに書くより、自分の真実を伝える方法が無い。もちろん、これで「名誉棄損」だの「ストーカー」だの騒ぐのであれば、警察へ行けばいい。その時点で、私の方も、今度は、5回目の虚偽告訴罪で刑事告訴出来るし、前回同様、「警察の冤罪捏造工作」で送検されたとしても、誹謗中傷を受けている以上、私は不起訴にしかならないだろう。送検されれば、私の無実の証拠も再び浮上するし、今度は、確実に起訴。警察に遣られたことも、更に具体的な証拠を以て、公開できるだろう。

結局、私が、当時、吉國から直接聞いた話を考慮する限り、崎谷健次郎は、高校時代から「洗脳状態」だったようだし、2019年のあの事件を経ても、未だに何かしらでも「関係が続いている」のであれば、引き続き「洗脳状態」かも知れない。

私としては、崎谷健次郎には、そろそろ、自分が「金づる」に利用されて来たという「自分の現実」にきちんと向き合って、いい加減「正しい方向へ人生を進めるべき」かと思う。だから、ここに書く私の本当の話と、自分が吉國から聞いていた話と、どの位合っていて、どの位嘘なのか、「自分の目」で真実を確認して貰えれば良いかと思っている。

吉國一己との出会い

吉國一己とは、N.Y.U.の論文のクラスで一緒になった。実は、最初に見た時、吉國一己には、顔や体が見えない程、「黒い煙」のような影が纏わり付いていて、彼女の周囲だけが「氷の柱」のようで薄暗く見えた。一言で言うと、背筋が凍るような恐怖感を感じた。「印象が悪い」とか言うレベルでは無かった。私は子供の頃から心霊体験は多いが、あそこまで「ヤバい人間」は生まれて初めてだった。

だから、最初は「絶対に関わりたくない」と必死に逃げていたた。しかし、同じ教室で、10数人の生徒だったし、他の人には「黒い影」は見えるわけはない。結局、逃げようが無かった。嫌な予感的中で、直ぐに、吉國一己の方が寄って来ては、しつこくお茶に誘って来た。それで、最初は、何度もやんわり断ったが、今度は「いつなら良いの?」とか「私を避けてる?」とか、有無を言わせず突っ込んでくるタイプ。所謂「面倒臭いワガママな女」なので、「一度だけ付き合えば、次からは断れる」と思って、二度と誘われないために、内心、渋々応じた。

そこから、崎谷健次郎(元カレ)の話が始まった。何か言う度に、私の事を「元カレとそっくり」と連発し、高校時代に知り合った頃から、東京に出て来た頃のこと、夜中に散歩が好きな「私とよく似た女友達」の話。その後どうだったかなど、聞きたくなくても、自分でベラベラ話して来た。

私の人生では、ベスト3に入るくらいの「異常な人」だと今でも思っている。吉國一己は「重度の記憶障害」で、大学と寮の往復の道さえ記憶出来なかった。カフェで待ち合わせすると、帰りは寮まで送る必要があったし、記憶するまで、軽く1カ月以上掛かっていた。何度送ったか解らない。カフェもいつも同じ店だった。方向音痴の女性は珍しくないが、方向音痴というより、道を記憶していない感じだった。

ニューヨークで友人関係だった時は、会話の95%以上が「男の話」だった。基本、崎谷の事と付きっている男の話ししか話題が無かった。30歳近くまで生きていて、一度も社会人として普通に働いた経験は無く、留学費用も「別れた元カレが全額出した」とかで、N.Y.U.の日本語学科に御遊学という感じだった。私には、優雅なお金持ちに見えた。

年代が少し上だったからかもだが、「男に奢らせて当然」な世代の女性で、「元カレ」におんぶにだっこで生きて来たようだった。客観的に見て、口ばっかり達者だが、自分では何も出来ず、結局、男に依存して生きることしか考えていない「典型的な勘違い女性」という印象。正直、こんな「頓珍漢」な女性が職場の同僚だったら、皆なが物凄く困るだろうなと思う様な人。

2日前の話も全く記憶していない「重症レベル」なので、時折、会話が続かず絶句することもあった。多分、自分が何を話したかも、私が色々教えたことも、当所の事は全く記憶していないだろうと思う。ただ、話術は巧妙で、時折、面白い観点で物事を語ることもあった。そういう所は面白かったかも知れない。

一方で、自分の事については、私に相談を持ち掛けている割には、「氷山の一角」しか見せないような話し方をする。普通の人であれば、細かい所は全く解らないと思うので、「本音」や「目的」は隠しつつ、相手を誘導するのに長けている話し方をする人だった。一方、当時は特にだが、私は「テープレコーダー」の様に記憶するので、氷山の一角のような一言を点で繋げば、その下も十分に見える。

一生懸命「隠している」ので、私は気が付かない振りをしていたが、あんな「卑劣な真似をして陥れる」のであれば、私には関わらない方が良かったのではと思う。あそこまで「嘘を吐かれる」と、私も記憶している事実を話さなくてはならない。

私は、当時、崎谷健次郎など知らなかったし、最初は「元カレ」という言い方で「似ている、似ている」と「刷り込み?」をして来た。一応話は聞いて、記憶もしていたが、基本的に「他人の話」で私には関係ないので、基本的には「スルー」していたが、会う度に、恋愛相談に乗るという感じだった。

結構、安直で、詰めが甘い人だった。例えば、30歳近くで「元カレと別れて渡米」と聞けば、「離婚した」事くらい想像は付く。何でこんな話を聞かせるのかと思う様な「支離滅裂な浮気話」や「ドロ沼離婚劇」を、「元カレとの話」として話しては、私に「元カレ」の心理や発言理由を訊いて来た。笑えるが、私が、見ず知らずの「元カレ」について説明をしていた。その度に「元カレ(崎谷君)と同じことを言う」と連発していた。

私はごく普通の感覚の人間なので、あれだけのドロ沼劇で、元夫に「陰湿極まりない仕打ち」をしておいて、未練がましく「崎谷君のお話」をする吉國を見て、ある意味、飛んでも無い「腐った根性」の人間と思った。今思えば「重度の記憶障害」なので、何事も「自分の都合の良い様にしか記憶しない」のだろう。諸々において、感覚に異常な部分のある人だったと思う。ただ、連日何時間も、既に「関係破綻」した「元カレ」の話をするので、直感的に「違和感を感じた」が、そんなに復縁したいならと、「復縁に向けてのアドバイス」のつもりで相談に乗っていた。

結局、そんなこんなで、ニューヨークにいる数か月、毎日のようにお茶をした。当然、ほぼ毎回、吉國が電話で誘って来ていた。正直、勉強で忙しいのに迷惑ではあったが、当時は孤独だったので、自分を誘ってくる人が嬉しくて、ついつい出かけていた。ある意味、私には、とても楽しい時間でもあったと思う。

ただ、実は、吉國と関わった「本来の理由」は、吉國に興味があった訳でもなく、「元カレ」の話をしたかった訳でも無い。結局は、吉國に大量の「怨霊」が付いていたからで、「霊力有る者」としては、吉國の「怨霊」を「成仏に導けないか」と思っていた。そうなれば、吉國の人生を救うことになるだろうから。

私は、当時、既に多少の「除霊」は心がけていたし、吉國と縁が付いたのも、「怨霊」に「自分達を助ける」よう「呼ばれた」のかと思っていた。なので、吉國と話をしながら、なぜこれ程の「怨霊」が纏わり付くに至ったのか理由を探っていた。あれほどの「影」は見た事が無かったし、「霊力有る者」としては、多分に興味をそそられる対象であったと思う。

一方、吉國一己は、非常に「口の達者」で、常に非常に強気な態度で、当初から、私には「貴女のためだから」と、髪型や服装や態度など「ああしろ、こうしろ」と指図し、兎に角、私がやるまでシツコク繰り返し言い続けた。後で気が付いたが、私の外見を、自分に似せるために、例えば「黒い服を着ろ」と言い続け、私が着て来るまで延々と繰り返した。結局「うるさい」ので指図通りに動いていたが、人に気にして貰うというのも悪い気分ではなく、私が素直に従ったので、「支配下に置けた」と思っていたかも知れない。

当時は私も自覚が無かったが、「言い成りになる」とは「支配下に置かれる」のと同じで、結局、それが「洗脳への第一歩」ということと思う。私は、出会った最初に、「怨霊」の皆々から「危険な人間だ」と「警告」を受けていたので、最後まで「完全な洗脳状態」にはならなかったが、単に「指図に従っていた」だけでも、発想や思想について「かなり影響は受けた」と思う。日本に戻ってから、「本来の自分」に戻るのに、かなりに時間が掛かった。

崎谷健次郎との事については、私は「復縁に向けたアドバイス」はしても、直接関わるのは危険なので、深入りしないように気を付けていた。そのうち「元カレを紹介する」と何度もしつこく誘って来たが、「本当にやめてくれ」とまで言って断り、暫く連絡を絶つほどだった。崎谷健次郎には、「私がファンで会わせて欲しいと頼んだ」とでも「嘘を吹込んだ」のではと思うが、私は、日本にいる時も、大学の勉強で忙しく、家にはテレビを置かない生活をしていて、本当に顔も名前も全く知らなかった。

正直、吉國が「元カレと会わせる」と騒ぐので、非常識な人だと思った。自分が関係破綻した男を紹介すること自体が「異常」だが、それも「元夫」だった人物であれば、普通の感覚で「有得ない」だろう。私は、紹介すると言われて、少し腹を立てていたが、それが理解出来て無い人物だった。あれだけ拒否しても、それでも会わせるたいのなら「裏」を考えて当然だし、あれだけ未練がましいのだから、私を出汁にして復縁に漕ぎつけようという事だろう。兎に角、巻き込まれたく無かった。

かなり用心していたが、暫くしてまたお茶に誘われた。少し時間も経っていたし、「元カレが居ないのなら行く」と念を押して確認してから出向いた。ところが、待ち合わせのカフェへ行ったところ、入口で待っておらず、先に奥の座席に崎谷と座っていた。その瞬間、「やられた」と思った。吉國には、当然、裏切られたと思った。

かなり腹が立ったので、そのまま立ち去っても良かったが、諸事情知らない初対面の人間に「あんたになんか関わりたくないのよ」と言うのも失礼かと思い、仕方なく、我慢して席に付いた。適当にお茶を飲んで、さっさと帰るつもりだった。

ところが、崎谷健次郎を見た途端、自分の知人に余りにも酷似していたので、びっくりして、それで興味を持った。ちなみに、崎谷健次郎とは、吉國に紹介される前年、東京の自宅前で何度か遭遇している。当時はかなり売れていたようで、私がじっと見ていたのもあり、私が「ファンだ」という嘘を信じたのかも知れない。自宅前で会った時も、この時も、自分の知人に外見も声も「瓜二つ」だったので、思わず見入ってしまった。

私は音楽家としか聞いておらず、服装から、勝手に「クラッシックの演奏家」だと思っていた。所謂、「芸能人」と関わると「面倒臭い」が、「クラッシック系」であれば、最低の社会常識はあるだろうと気を許したのが大きな間違いだったと思う。

予知夢について

私は「予知夢」を見る。私の「予知夢」は、何処かへ行って「ここに来た事ある」と思うとか、「単純なワンシーン」とかいうレベルでは無い。1週間とか数か月とかに渡って、折々の局面を、数十秒から数分の映像(ビジョン)として、連続で見る。崎谷健次郎についても、ニューヨークのカフェで会ってから別れるまでの1週間分の予知夢を見ていた。それを、席に付いて、崎谷の顔を見た瞬間に、急に思い出した。

近所の火事の夢などは記憶している事が多い。その場合はアクションを起こすこともある。しかし、避けられない事態については、一旦忘れてしまい、直前にならないと記憶が戻らない。自分の発言の異常さは自分が最も良く理解しているが、なぜ自分がこうした「不可思議な体験」をするのか理由は解らない。ただ、これまでの経験から、予知夢は危険回避の為に見るようだ。避けられ無い場合は、多分、そのままだとショックが大きく受け止めきれないので、事前に夢で見て「危険回避」をするのかも知れない。

崎谷健次郎の予知夢では、最後に、自分が涙を流している場面で「非常に悲しい気分」で目が覚めた。その一連の夢を、ニューヨークのカフェに座った瞬間に思い出した。「この人、夢で見た」と思った。

その翌日、「吉國との復縁を勧める」ためにと一人で会いに行ったが、次の日に、崎谷の方から電話があり、会う事にした。その辺りから、折々、夢のシーンが完全に再現されるので、次に何が起きるのが解るという「不可解な気分」を味わいながら、「予知夢が現実化」する体験をしていた。ここまでの現実化は生まれて初めてだったので、非常に衝撃的だった。

実は、後日、ある「霊力者」に、崎谷健次郎とは関わるなと言われた。悪い人間ではないが、「関わったら大変なことになる」と警告された。ところが、残念ながら、そのアドバイスは関わった後だった。知っていたら、最初のカフェで予知夢が実現化したところで、縁を切ったと思う。その後は、私が関わりたくなくても、関わるようになってしまって行った。今振り返れば、確かに「大変な事になった」と思う。

同時に、吉國一己については「邪悪過ぎる」ので「お前の力では救えない」と言われた。だから「決して救おう」などと思わず、兎に角、「逃げろ」と言われた。私は「怨霊」が纏わり付いているのは知っていたが、既に「親友」のように思っていたので、何とかしたいと思っていた。ところが、その後、高校時代に教師を自殺に追い込んだ話を聞かされ、「貴女も面白いから遣って見れば」と何度も勧められることがあった。多分、本人は、そんな話をしたことは全く記憶していないだろう。店の外に出てからも、何度も勧める程のしつこさで、目付きが兎に角「異常」だった。流石に「邪悪過ぎる」という意味を理解した気分だったし、なぜあれ程の「怨霊」が纏わり付くのか、この時ようやく理解したと思う。

霊的に言えば、「怨霊」とか「邪霊」に憑りつかれているだろう。また、精神医学的に言えば、「記憶障害を伴う多重人格症」で、その中の1人格に「凶悪犯罪者的な人格が存在する」という感じだろう。普通では「凶悪な人格」は表面に出て来ないので、非常に優しい良い人に見えるだろう。多分、私には相当気を許していたのかも知れないし、半年くらい経ってからの出来事だった。私としては、友人を辞めるつもりは無かったが、その時の余りにも「邪悪な顔」を見て、その後は、普通に顔を見れなくなった。

不思議な事に、その後、すぐに、両足に大火傷を負ってしまい、歩く事も出来ない状態に陥った。吉國もアパートへお見舞いに来てくれた。前月に医療保険が切れており、2週間ほど自宅で治療し様子を見たが、状態は悪化の一途。当時は、一日の診療費と往復飛行機代がほぼ同額で、場合によっては「入院も想定」されたので、結局、日本へ帰国することにした。

最後、吉國が空港に見送りに来た。私の事を「親友」だと思っているようだった。私は、崎谷健次郎を強引に紹介した時から、吉國に対しては「一歩引いていた」し、高校教師の話を聞いてからは「危険」という認識に変わっていた。

崎谷健次郎と関わった事は、友人として、吉國を傷付けると思い言わなかった。私は、それ以上、崎谷とは関わるつもりも無かった。ただ、私が「崎谷健次郎の弱点」を解消したことで、吉國は今後、崎谷健次郎を「金づる」としては操作は出来ないだろう。それを知れば恨まれるかも知れないと思った。

吉國一己の本当の幸せ

一方で、吉國一己の本当の幸せを考えれば、明らかに「自分を全く愛さない男」に、金銭的理由で「執着」して、いつまでも関わっていれば、結果的に、吉國が「自分の人生を自分で進む生き方」からは完全に外れて行ってしまうと思った。

私は、吉國とは、一時期は「親友」だったし、姉の様に慕っていた。私を自殺へ追い込もうとした「長年の仕打ち」を鑑みれば、「サイコパス殺人鬼」と言われても仕方ない「邪悪な人間」と思う。それでも、私にとっては「友人」だったから、崎谷健次郎のような人間では無く、吉國一己を心から愛してくれる男に巡り合って欲しいと思っていた。だから、敢えて崎谷とは「縁を切る」方向で動いた。

崎谷健次郎からすれば、経済自立力の無い吉國とか鶴崎とかを、身近に置いて「養っている」という事で、「自分をまるで聖人」とでも勘違いしているだろうが、結局は、それでは「飼い殺し」しているのと同じ。心から愛して人生掛けて幸せに出来ないなら、中途半端に、関係を続けるべきではない。特に、経済面での関係は「くされ縁」にしかならない。結局、相手の人生を不幸にするだけだろう。

崎谷健次郎のような人間には、その自分の「汚さ」は今も自覚していないだろう。だからこそ、吉國が「仕事を理由に」戻った時も、拒絶しなかったと思うし、その後も、吉國と関係を清算しようとしなかった。正直、人生で一度でも、誰かを真剣に愛して正面からぶつかった事があるのかと思う。

私が崎谷と関わることは、ある意味、吉國を裏切ることになると思った。それでも、敢えて関わった理由は、吉國を心から愛せないのであれば、子供も作れないのであれば、彼女からは「完全に手を引いて欲しい」と思ったからだった。

崎谷健次郎が完全に拒絶してくれれば、確かに、彼女は経済的に困窮する事態にはなると思う。しかし、だからこそ、他の人に「助けを求める」ようになり、助けて貰う事で、助けて貰う事の意味を学ぶだろう。高校時代から、崎谷健次郎が、全て、助けて来て、結局、それが当り前で生きていた。「男に奢らせるのが当然」と豪語し、「割り勘」する私を「女として価値が低い」かのように言っていた。

でも、誰かに「食事を奢って貰う」とか「何かを勝手貰う」とかは当たり前では無い。そういう吉國が、人の親切は「当り前では無い」と、心の底から理解するには、吉國が一人で苦労する人生にならなくては何も学べない。結局、崎谷健次郎が「甘やかした」せいで、何も学ばずに人生の大半を過してしまったのではと思う。

結局、2019年の虚偽告訴事件は「吉國一己が主犯」としか言いようがないが、その元凶を作ったのは、崎谷健次郎だということを、崎谷健次郎は理解すべきと思う。「自分が心から愛せない女」を側に置いて「金銭的に援助する」ことで、逆に、「誰にも愛されない女」を生み出すことになったということ。その結果、自分が恨まれ、同時に、私が恨まれたという事。

私のラベンダーレクイエムに、「人は何で生贄を欲しがるのだろう。奪い合うのだろう。」という歌詞があるが、自分が孤独だからといって、相手を本当に幸せに出来ないのに、引き留めるべきじゃない。相手を犠牲にすべきじゃない。結局、それは、相手の為の様で、実際には、自分のためであり、自分への生贄として利用しているに過ぎない。

そうして、吉國一己は、結局、大きな勘違いをしたまま、私への復讐に走り、崎谷健次郎への復讐に走り、ああした事件を引き起こす原因を作ったと言えるだろう。この30年、崎谷健次郎に引っ付いて、金銭的には「良い思い」は出来たと思う。それで、その人生、たった一度でも「真剣に愛された事」があったのかといえば、ニューヨークで悩んでいた時と全く変わらず、「誰にも愛されない人生」だったのでは無いだろうか。

経済的に困窮するからこそ、仕事でも、男にでも、頭を下げて必死に尽くすようになる。私は、吉國一己に、自分で社会へ一人で出て、それを学んで欲しいと思った。そういう苦労を経ないと、あの女の「高慢ちき」で「感謝の無い人間性」は決して改められることは無いし、そうした苦労を経て、色々な人と真剣に向き合って、人に尽くすことを学び、吉國を愛せる人と幸せになって欲しいと願っていた。

結局、私が、ニューヨークであれだけの長時間を割いて「誰かと幸せになるための心得」を教え続け、「新しい人生」を進んで欲しかったのに、崎谷健次郎が、全部、ぶち壊したようなものだと思う。私との事を楽曲にして全部バラしたから。吉國一己には何があったか解っただろうから、とても傷付いたかも知れない。

「一に己」の韓国人からすれば、自分を捨てたとか裏切ったという解釈だろうし、私のせいになるだろうし、そういう思いが、結局、私を自殺に追い込んでも殺してやろうという動機になったのではと思う。

崎谷健次郎が、吉國との縁を叩き切っていれば、彼女は彼女として、別の人生を進み、別の学びを得たかも知れない。相手の人生を大切にして、相手にとっての「本当の幸せ」を考えれば、きっちり縁を切れたと思うし、切るべきだったと思う。そうすれば、こんな異常な事件など起きる必要も無いし、吉國も、鶴崎という人も、新しい生き方を模索出来たと思う。結局、「泥の水溜まり」で足踏みして、どこへも進めず苦しいからこそ、私を恨んで「はけ口」にしていたのではと思う。

手放すということ

「ツインレイ」の話に戻るが、「ツインレイ」では「サイレント期間」を経て、「再会」し「統合」を果たすらしい。ただ、それには、「執着を手放す」ことが条件になる。もし私という「ツインレイ」と再会を果たしたいのであれば、吉國について、鶴崎について、アクセサリー屋の女についても、全て、完全に「手を切る(手放す)」必要があるだろう。他にも、ぶら下がっている女がいるなら、そういうのもきちんと清算が必要と思う。その上で、本当に人を愛するとはどういうことか真剣に考えるべきと思う。そして、多分、吉國にも、鶴崎にも、アクセサリー屋の女にとっても、崎谷に対する「執着を手放す」時期なのではと思う。

そして、崎谷健次郎が、現状のまま変わらないなら、今後も、我々が「再会に至る」ことは絶対に無いだろう。人生の選択とは、一人一人の意思で決めることであり、「出会い」と同様に「再会」もまた、一人では出来ない。これは「ツインレイ」に関わらず、誰にも言えることだと思うが、人は「愛されるから」愛するのではなく、自分が「愛する」から愛するもので、全ては自分の意思で、自分の結論を出すしか無い。そのまま「自滅の道」を歩むのも崎谷健次郎が決めることだろう。私は、ただ、自分の人生を進むしか出来ないのだから。

意思の力

奇しくも、私は、崎谷健次郎にニューヨークで会った時、「意思の力」について語った。その後の手紙でも、芸術や音楽の事を通じて、結局は、「自分の意思で生きる」こと、「自分の意思で愛すること」を繰返し書いていたと思う。

「ツインレイ」に関しては、そこで語られる「人の愛し方」や「人としての在り方」は、人を愛する上で「実践すべき知識」であり、自分として生きるための「学び」と思う。

また、「自分軸で生きる」事が「サイレント期間」での学びの一つと言われる。崎谷健次郎には、以前、情報を投げたが、結局、今も、単に「謝りに来る」という簡単な事さえ出来ない。人間は、自分でやらなくてはならない事は、自分でやらなくてはならない。他人に流され、有耶無耶に生きていては、何事も成さないまま、同じ所に留まってしまう。

以前、崎谷健次郎に「貴方は、固く目をつぶり、両手で耳をふさいで、ドロの水溜まりで、必死に足踏みをしているようだ」とメールした事がある。この言葉が届いたかは解らないし、届いても理解したか解らない。しかし、今回の事件を見ても、自分の目で真実を見ようとせず、自分の耳で真実を聞こうとしなかった。

結局、先へ進もうと必死に足を動かしているが、何も見ず何も聞かないから、自分が進んでいる気になって、一歩も先へ進めていない。ドロの水溜まりの「不快感」が常にあっても、自分は進んでいると思い込む。それが、誰かから「洗脳される」という事かも知れない。そこから抜け出すには、自分の目で、自分の耳で、何より、自分の心で、自分の人生の全てを確認し、理解し、判断しなくてはならない。

世の中、なぜ「ツインレイが存在する」と言われるのかは解らない。私の考えも間違っているのかも知れない。しかし、人は、なぜか、折々、不思議な巡り合いや出来事を経験する。そして、それは人の人生を大きく変えてしまう。冒頭での一文通り、私は、崎谷健次郎と私は「ツインレイ」の関係だと思っている。自分に起きた不思議な巡り合いや出来事の理由が他に見付からない。

「神」は出会いは与えるのだろう。でも、最終的にどうするかは、人間の「意思の力」で人間が決めることであり、だからこそ、「ツインレイ」で学ぶべきは、多分、自分自身の「意思の力」で人生を生きることでは無いだろうか。

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