「教えない」という「教え」

「教えない」という「教え」

私の祖父は「神道の行者(神主)」でした。育った家には家の中心が大きな神棚で、玄関、台所、トイレ、風呂場にも小さな神棚があり、子供の頃は「神様と同居」している感覚で生きていました。私が生れた時には祖父は既に他界していましたが、伯母が「巫女」のような感じで「神棚」を引き継いでおり、毎日、朝と晩に、祝詞が上がる家で育ちました。

だからこそ、子供の頃から「神様とは何か?」という疑問を抱えて来ました。また、「神道とは何か?」についても「答え」を探して生きて来ました。

「神道」には、祭礼の際の手順や手続き方法の説明はありますが、キリスト教や仏教などのように「教典」という様なものはありません。例えば、イスラム教の教典であるコーランには、「貧乏を恐れて自分の子供を殺したりしてはならぬ」など、非常に具体的に「教え=指示」が述べられています。仏教でも、教典には、例えば「色即是空 空即是色」など、物事をどう捉えるべきか「教え」が述べられています。キリスト教も「愛し方」を教えてくれています。新旧関わらず、他の宗教もですが、「その通りにやれば、迷わず生きれる」ような「教科書」になっています。

ですが、神道には「教典が何も無い」ので、「どう生きれば良いのか?」という問いに「具体的な答え」がありません。それ以前に、「神様とは何か?」、「神道とは何か?」という「存在を問う」レベルで答えがありません。

家族に質問しても答えは納得の行く答えは得られず、神主さんやお坊さんなどは、前提が「信じている」ので、私のような「疑い」は無いようで、結局、誰からも回答が得られることはありませんでした。

それで、結局、自分で「正しい生き方とは何か」を自分で学ぶしかないと思う様になりました。そうして子供の頃の自宅を思い出すと、私の家は「神道」なのに、「仏壇」が存在し、書棚には、他の宗教であるキリスト教の聖書やコーランが置いてありました。多分、父も同じ「疑問」を抱え、「壁」を突破するために、「教え」を読み漁ったのかも知れません。

私は、自分の人生を「自由に選びたかった」です。だから、「神様」についても「自由に選びたかった」のです。一時は「神道」や「神様」に否定的な時期もありました。ですが、そうして他の宗教を学ぶうち、結局、結論は、世界中の宗教の中で、信仰と呼ばれるものの中で、何を学んでも許されるのが、唯一、「神道」だと気が付きました。

何も「教え」が与えられないからこそ、自分が何を学んでも許されるという事です。自分の国の、自分の「宗教」が、唯一、どの神様も否定せず、犬や猫や牛など生き物だけでなく、道端の石も、草花も、風も、雨も、筆や紙まで、「神」として崇められます。世界中で、この世の何もかもが「神様」になるのは「神道」だけでしょう。

ですから、「教えが無い」=「教えない」のが「神道の教え」だと思っています。自分で学び、その学びを自分の判断と責任で実践するということです。他の宗教に比べれば、人としては、非常に「精神的な負荷の高い生き方」を歩むことになるでしょう。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、全て、非常に素晴らしい「教え」が満載です。これに仏教を加え、世界の四大宗教と言われていますが、「神道」の道を歩むのであれば、最良の教科書となるでしょう。人生を書く宗教での専門的な学びに費やすか、他も学んで人生で実践するか、それも全て、自分が自分で選択することです。

私は自分の人生を「実践訓練」として生きています。「神道」という人としての「理念」に基いてです。これが唯一許されるのが「神道」だったから、「神道を生きる」ことにしました。

 

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