母の遺品整理
ここ1カ月、母の遺品で自分の部屋の一角が倉庫状態になっている。葬儀の後、兄が母の衣類などを処分すると言うので、私が自分の部屋に引き上げて来た。母がまだ元気だった頃、二人で買いに行った服、私がお揃いで買ったセーター、ハンカチや帽子など全てに思い出がある。直ぐに処分など出来ない。
母の死後、2日後が自宅での納棺となった。葬儀屋さんに手伝って貰い、母を寝間着からドレスに着替えさせた。「おくりびと」さんにお化粧をして貰った後、髪をコサージュで飾り、アクセサリーを付けた。そして、一番良い着物を掛け、くつと草履も入れた。もし父の霊に会ったら「綺麗だ」と言って貰えるように。
父と母の結婚
私の母は、元々、私の父の会社の従業員で、父との結婚は、父が結婚前提に長年付き合っていた「元カノ」が、父の結婚相手として自ら選んで引き合わせたのが「切っ掛け」だった。当時、父は40歳直前で、その「元カノ」は父より年上で、バツイチ。数年付き合ったようだが、年齢的にも身体的にも「子供が生めない」ので、家族に結婚を猛反対されて別れた。
なぜ「元カノ」が、父の結婚相手を選ぶ話になったのか理由は不明だが、彼女の性格を考えれば、「別れる条件」として「自分の選んだ女性と結婚しろ」と迫ったのかも知れない。父も、少し「投げやり」になっていたかも知れず、私の母とお見合い後、直ぐに結婚になった。
後で母から聞いた話では、私の母は、結婚してすぐ、「元カノ」が父に書いた「未練たっぷりの手紙」を読んでしまったらしい。父と「元カノ」の経緯を知っていたが、結婚後は、父をとても大切にし、誠心誠意尽くしていたと思う。父は、昭和の社長そのもので「暴君」のようだったが、母だから勤まったと今も思う。
例えば、味噌汁や吸い物は毎回「鰹節を削る」ところからだったし、当時の男性としては、珍しく「朝晩と風呂は一日2回」だったので、早朝からお風呂の準備をし、着替えは「漆の細長いお盆」に下着とシャツなど揃えて出し、風呂を上がったところで背中を拭いて、下着を着せるほどだった。同時並行で「朝食の準備」もあり、電子レンジの無い時代。米も毎食焚いていた。これに幼児2名の育児。心臓弁膜症で大手術となっても、全く不思議は無い労働量だった。
一方、母を紹介した「元カノ」は、その後も、父の秘書として会社に残った。かつて仕事上で父を救った事もあり、父としては恩義を感じてはいたよう。ただ、私の母と異なり、「口は達者だが、実が伴わない」タイプ。方向音痴で、仕事もかなり微妙だったのではと思う。何かと手間の掛かる女性だった。当時の女性にしては、料理は全く出来ないし、毎晩、インスタントラーメンという様な人だった。
父は、崎谷健次郎とよく似てて、とても神経質で、何かとすぐ「切れ易かった」ので、女性の良縁は遠かったよう。父の秘書だった「元カノ」は年上だった上、非常に気が強かったので、口では負けなかったのだろう。ただ、「口だけで何も出来ない」人間性を、父はどこかで嫌っていたのではと思う。本当に愛していたら、家族に猛反対されても、押し切って結婚しただろうから。
結局、私の母に出会って、初めて「女性の優しさ」を知ったのかも知れない。私の母は、父の「元カノ」とは、背格好はとても似ていたが、内面は全く正反対の人間だった。くどくど何も文句言わず、家事も育児も熟し、精一杯努力する人だった。頭も良かったし、何より優しい人だった。父としては、そんな母の事を心から尊敬し愛していたと思う。
しかし、そうした「父の変化」を知ってか、父の結婚後も「元カノ」は父の秘書として会社に残り、「仕事の関係」という名目で人間関係を継続した。もし「元カノ」が父を本当に愛していたら、本来、愛情とは「相手の幸せを第一に願う」ものだろうし、自分が取り持って結婚させたのなら、尚更、自分から「離れていく」のが本来だと思う。でも、結局、そんな事はしなかった。
結局、父に「強い執着」があったようで、その一方で「父は最高の金づる」だったのではと思う。父の方は、ある意味「平和」な「非常識人」で、「別れた経緯」からも不憫に思い、社員として雇い「経済的に支援」を続けたのだが、その女性からすれば、自分で結婚相手を選び、その後も「付き纏う」ことで、父の結婚生活や人生を破壊してやろうと思っていたかも知れない。
実際、その「元カノ」のお陰で、私の母は、父と、ごく「普通の家庭を築く機会」を完全に失った。母としては、その「元彼女」の計略に気が付かず「巻き込まれた」に近かったのかも知れない。ところが、父と母の中は良好で、結婚した翌年には兄が生れ、3年後には私が生れた。父へ「執着する」一方で、心の中では、物凄い「憎悪と嫉妬」を抱えていたのではと思う。父は、そういう所は敏感な人間なので、内心は気が付いていたかも知れない。
「元カノ」の女性は「身体が弱かった」のは事実だが、食生活に全く気を使わず、稼いだ金は社交ダンスに継ぎ込み、弟の生活を面倒見て、贅沢し放題に生きていた。そのうち、子宮がんを患い、やがて転移して脳腫瘍になり、その後86歳で亡くなるまで、あちこちにガンが出来ては手術を繰返していた。
独身で、世話する親族も居ないので、結局、病気になる度に、私の一家で面倒見ることになった。入院した時は、父と私が毎日のようにお見舞いに行っていた。今思うと、自分の気持ちは誰にも何も言えず、母親はとても辛かったのではと思うが、自分も「重病人」になってしまったので何も文句言えなかったのだろう。2人の子供もいるし、離婚も出来ず、随分、苦しんだようだった。父の姉に当たる伯母は、「元カノの有様」を見て「図々しいにも程がある」と悉く怒りまくっていた。
私は父が亡くなるまでは「本当のこと」を全く知らず、その「病気がちな女性」を「親切な伯母」のように慕っていた。まともに料理も作れないし、放っておけば「ガン」になる「重病人」だったので、「可哀想な人」だと思い、家族のように大事に思っていた。父の会社が安定した後は、子供の教育のため、毎晩、家族全員で食事をするようになったが、結局、その「元カノ」が、我が家の食卓に招かれて、毎晩一緒に、母と私が作った食事を食べていた。それでも、病気になれば、私の一家で面倒を看ることになる。私は、毎晩、少しでも「健康を保てれば」と思って、母の手伝いをしていた。母親の気持ちを思うと、最愛の父に対してさえ、嫌悪を感じる。
人生とは、本当に皮肉としか言いようが無い。偶然知り合った吉國一己は、私に連来相談を持ち掛けた末、何と、私に、「元夫」の崎谷健次郎を紹介して来た。私は、自分の父と母が結婚に至った経緯を知っていたから、「そういうのは本当に止めて欲しい」とまで言って「拒絶」した。吉國一己の復縁工作に「巻き込まれれば、どういう事態になるか解っていた」から。それを、嘘を吐いて無理やり紹介したので、本当に「裏切られた」と思った。
結局、私と崎谷健次郎とを恋愛関係に発展させ、最後には自分を選ばせるよう「駆け引き」するつもりだったのだろう。もし仮に、私と崎谷健次郎が「結婚」となったら、作詞家としての「仕事」を理由に、生涯、纏わり付くつもりだったのだろう。親切な友人の振りをして。背筋が凍るような人間性。
しかし、こういう悪事を吉國一己に許した理由は、結局は、崎谷健次郎が「女性関係にだらしない」事が最大の原因と思う。吉國が「邪悪な人間性」であっても、崎谷健次郎が「女性関係にきっちりケジメ付ける人間」であれば、もっと早い段階で、吉國一己との関係が切れていたと思う。「洗脳」されて「言い成り」も解るが、私と会う前に、既に「ドロ沼離婚劇」で離婚しており、当時の交際していた女性にも深過ぎる心の傷は負わせている。男としての「ケジメ」を考えれば、二度と、会いにさえ行かないだろう。会いに来ても、拒絶して当然。私の父もだが、人によっては、「優しさ」が「正しく伝わらない」ことがある。「ダラシナイ」のが一番良くない。
幸い、私は、母の人生から、こうした「邪悪な策略」に嵌らず、吉國からも、また、吉國と仕事関係を再開した崎谷からも、早々に逃げた。吉國も、私を利用できないと踏んで、早く関係が切れるために「ストーカー電話攻撃」など卑劣な真似を繰返したのだろう。
崎谷健次郎は「井の中の蛙」で「人の話を聞かない」から、私がまるで「裏切った」とでも勘違いしたかもだが、崎谷健次郎が「私に言った言葉を守らなかった」結果でしかない。私が「ストーカー?」なんて有得ないし、そもそも、無礼な態度を取られる理由は何も無い。
その後、吉國一己は、鶴崎江理子を見付けて来たようで、可哀想に、鶴崎江理子は自分が「罠にはまった」ようで、結局、私の母親の二の舞だったようだ。崎谷健次郎は、自分を利用しようとする人間には、最後の最後まで心を許せない。鶴崎江理子が元歌手だからこそ、心からは愛せなかっただろうと思う。それに、私とあれ程不可思議な出会いをしてしまったし、結局、囚われていたのは私も崎谷も同様。
その上、鶴崎江理子の場合は、長年、自分が「利用されて来た」ことさえ、今も気が付いていないかも知れない。今回の事件でも、結局、崎谷健次郎は「騙された」のが真相だろうが、表向きは「吉國一己」は出て来ないから、「真犯人」は鶴崎江理子となる。崎谷健次郎の刑事告訴は、即ち、鶴崎江理子の刑事告訴でもある。
会社代表で表向きと恰好は良くても、人生としては、会社のせいで「自分が縛られている」だけで、最悪としか言いようが無い。
崎谷健次郎とのカルマ
実は、2017年に崎谷健次郎に送ったメールには、こうした話も書いた。多分、「真犯人」が自分に都合の悪い内容のメールは削除しただろうから、崎谷健次郎は、私の父と母の話は知らないだろう。
私の父の当時は、40歳を越した女性の再婚は非常に厳しく、「性格も非常にキツイ」ので、成行き上、経済的に面倒を見るしか無かった。その後は、縁を切りたくても、「ガンで重病人」になり、尚更「縁を切る」ことも出来ないまま、自分がガンで先に亡くなってしまった。
父の秘書というより「女帝」のニックネームが付く様な立場だったが、父の闘病中に、父の側近的な従業員に会社の「黒字倒産」を仕掛けられた。会社には、その「元カノ」がいるのに、何も気が付いておらず、蓋を開けてみたら、多額の売掛金を作られ、私の一家は飛んでもない窮地に陥った。その「元カノ」では何も出来ないので、結局、母が会社を引き継ぎ、父の秘書だった「元カノ」を継続雇用して、兄が会社を継ぐまで面倒見ていた。
私は、崎谷健次郎のことは、自分の「ツインレイ」だと思っている。その位、有得ない不思議な巡り合いをしたと思っている。「元妻」韓国人の吉國一己が、私に紹介して来たことも、単なる偶然には思えない。確かに、「カルマ」というようなものがあるのだろうかと思う。
しかし、私は、母親のように騙され、同じ失敗はしたく無かったし、そもそも、私は誰かと自分を「天秤に掛ける」ような真似はされたくない。私を選択できない時点で、私の事を軽んじていると思う。
仮に、現状、吉國一己が、父の「元彼女」のように、「重病人」になって、「病人だから面倒見ろ」と泣き付かれ、「恩情」から、関係が継続しているとしても、それなら「お金だけ振り込めばいい」だけで、ドロ沼離婚劇を経て、やっと離婚した相手と、愛情も無いのに、仕事だので人間関係を継続させるのは間違っていると思う。
鶴崎江理子についても同じ。2010年に会社設立時は「崎谷江理子」だった。2012年には、代表者名は「鶴崎江理子」に戻っていた。要は、離婚が正式に成立しているということ。会社代表者名は、基本的に、戸籍氏名。そんなの一般常識。一人役員だし、離婚に当たっては、音楽利権を全て管理する会社の「代表者になる」のが条件だったのではと推察している。父の「元彼女」だった女性が、別れた後も、仕事を理由に「食い付いていた」のと同じで、これも相互に間違っていると思う。
その間違いの結果が、崎谷健次郎が虚偽告訴犯罪を犯した理由。
何も無い「空間」
葬儀を終え、業者が介護ベッドを回収すると、それまでそこにあった「母の痕跡」が一気に消え、何も無い「空間」に置き換わっていた。母に、父親と「元彼女」の話を聞いていたので、私は吉國一己の策略に嵌らなかった。それでも、母はとても冷静で優しい人だったので、最後まで、重病人の「元彼女」を気遣った。会社では父の死後も、70歳近くまで雇用したと思う。その後も、入院になれば、母と私とでお見舞いに行った。
晩年は私の自宅からは少し離れた老人ホームへ入った。私は仕事が多忙を極め、殆ど行けなかった。漸く出向いたら、職員に、親族の家の近くへ移ったと言われた。血のつながりは無いので、連絡先は教えて貰えず、暫くして亡くなったという連絡だけ来た。母とお墓参りに行き、号泣したが、巫女の伯母が本当に毛嫌いしたいたように、多分、「邪悪な人」だったのかも知れない。結局、人生の最後に、自分が父と母にやった「人非人な行い」を恥じて、母と、父にそっくりな私には、申し訳なくて会えなかったのかも知れないと思っている。
昨今はお寺でお通夜をせず、葬儀告別式のみが多いらしい。自宅で納棺まで2晩は、冷たくなった母の側で、一緒に過ごした。目の前に横たわる母の胸が動いているように見えてしまい、何度も、顔を覆う布をめくっては確認した。親子以上に、姉妹であり、最高の親友であり、私を無条件で愛してくれた唯一の人だった。
崎谷健次郎には、母の遺骨に、謝罪してほしい。