ワンコの芸

ワンコの芸

先月母が亡くなった翌週の土曜、ドタバタの中、友人のワンコを預かることになった。母親の葬儀が終わったばかりで、私は気が張っていたものの、かなり辛い状態だった。私の住んでいるマンションでは、犬猫は飼ってはいけない。犬を連れて歩いているのを、他の住居者に見られると、「犬飼って良いんですか?」と噂になってしまう。結局、1週間ほど預かることになり、人生で生れて初めて、犬と一緒に寝た。

このワンコは「分離不安症」という犬の精神疾患を患っていて、独りでお留守番が出来ない。部屋に一匹で置いておくと、帰って来るまで、延々と吠え続ける。最初の頃、20分程度だったが、私だけ外に出て戻って来たら、玄関ドアから「犬の遠吠え」が聞こえて来た。鳴き方が普通では無いので、インターネットで調べたら、「不安分離症」という病気で、一人で取り残されてトラウマを抱えてしまうと、また置いていかれると「パニック症状」が出るらしい。ついでに、今年は急性腎臓病になり、命は取り留めたが、慢性腎臓病を患っている。あと何年元気でいるだろうという感じ。

 


初めての犬体験

私の生家では、大きな神棚があり、巫女の伯母が「獣は家に入れる非からず」みたいなノリだったので、父の死後、一人暮らしを始めるまでは猫一匹飼ったことは無かった。これまでの人生では、子猫を一カ月ほど飼ったことがあるだけで、犬については「未知との遭遇」レベルに知らなかった。昔は、犬は「誰にもすぐ媚びる」みたいで好きじゃなかったが、実際に接してみると、そういう事ではなく、単に「社交性が高い」だけだと解った。猫のように「勝手な振舞い」で居なくなるとか「露骨」でないだけで、最低レベルの儀礼は保ちつつ、好きな人と嫌いな人では態度がかなり違う。

世の中、皆な「犬も猫も可愛がるもの」だし、私は大して好かれてないと思っていたが、友人いわく、「犬が私に物凄く懐いている」らしい。私のところに来る時は、嫌がらずに自分から車を降りるし、嬉しそうな感じもあるとか。私は、人間であっても「誰かに好かれている」とか感じられ無い、というか「自分が好かれている」ことに確信が持てない。なので、「犬に好かれている」のも正直良く解らないが、犬は言葉を話さない分、「ボディ・ラングエージ」で表現してくる。意味が解らないので、インターネットであちこち見て勉強した。

 


犬とのコミュニケーション

人もだが「ボディ・ラングエージ」では、「中途半端な表現」や、人間が良くやる「真逆の表現」や「駆け引き」をやると、相手に自分の意思が正しく伝わらないし、誤解も生じやすい。そして、大きな誤解は、犬にとって「命の危険」になる場合もある。極端な話、犬はご主人に好かれていなければ、捨てられるのだから。なので、観察していて、とても「真直ぐに表現」してくる。

例えば、「エサが美味しくない」とか「別のエサが欲しい」とかだと、お腹が空いていても「食べない」し「うずくまって悲しそうな眼をする」とか。「お散歩行く?」で嬉しいと「はしゃいでくるくる回る」とか。自分が好きな相手の事は、狭い部屋でも「後をくっついて追い掛ける」し、トイレに入ると、寝ていても起きて来て「ドアの前で待ってる」とか。PCで作業していると、椅子の下に来て、危ないので膝の上に乗せると、時々、手足が動いているのでノンレム睡眠状態になる位は安心するのか爆睡している。私といて、そこまで「リラックスして安心している生き物」を多分知らない。

ちなみに、一度、犬の前で「歌のレコーディング」をしたら、犬がビックリしつつ「耳ピン」になってずっと聴いていた。昔は時々池之端で早朝に歌の練習してた事があるが、水鳥とかチョウチョとかが寄って来てたので、動物も「人の歌声」を聴くのは好きなのかも知れない。これは、神様も幽霊も一緒のよう。声や音は出せても、人間のようには歌えないからと思う。

犬が来ると、私は、ついつい、犬にやたらと話し掛けている。散歩は朝昼晩で最低3回は行くが、道々臭いを嗅ぐので、「そこ臭いますかぁ?」とか「疲れてませんかぁ?」とか。小型犬で高齢でもあるので、時々、顔を見たり、極端に息切れしてないかとか、体調チェックしながら散歩してる。家に戻ると、私の腿の上に乗って爆睡。何事も「真直ぐに素直に表現してくる」ので、私も「相手の思考により解釈を分析」しなくて良い。私も少しASDの傾向があるのではと思う。幼稚園で「午前中の記憶すらない幼児」の中に入り、「登園拒否」をしたのがトラウマなのか、自分で「人の気持ちを理解できているのか」、子供の頃から全く自信が無い。

 


人とのコミュニケーション

人の気持ちは本当は良く解らないのが本音。なので「間違った対応」をしないよう、子供の頃から、人を徹底的に観察し、折々の「人の心理」や「応答パターン」や「行動パターン」を研究し、記憶蓄積した。大学では「コミュニケーション論」も学習し、服装、髪型、持ち物、態度その他から、その人の「人物像」を分析するようになった。私の人物プロファイルが正しいかは不明だが、私という人間への反応を考えれば、まあまあ正解に近いところを付いていると思っている。

当然、世の中は嘘を吐く人が異常に多い。なので、法律や一般常識も含め「嘘を見破る知識」も相当には身に着けてた。警察の担当刑事もだが、幾つも「嘘を吐き捲っていた」が、人物プロファイルとして、「反論すればするほど激情して、自分の持論に固執するタイプ」だったので、「やっていない」事以外は、敢えて流した。

警察が、ここまで「集団で冤罪捏造」する連中で、また、警察とは「検察の判断を完全無視する集団」だとは流石に考えず、2019年の事件では判断が狂ったと思う。結果、この馬鹿刑事どものせいで「散々な目に遭った」が、通常の人々を見ていると、殆どの人は意識せずに「他人と共通認識」が持てるように思う。ただ、きちんと「正しい認識」については熟慮してないから、トラブルが多いのかも知れない。弁護士でさえ、これは「言ったらマズいでしょ。」みたいなことを平然と口にする。

また、人間には「本音」を隠し、「逆の表現」をしてくる人や「本当の自分を隠す人」も多い。これは、私には、多分に「嫌がらせ」に近い。非常に混乱を来たす。

特に、例えば「愛している」にも関わらず「相手に辛く当たる」みたいな、完全に「真逆の表現」や「両極的な同時表現」をされると、自分の中で少し「パニック」になる。自分が気が付かずに「相手の気分を害した可能性」を考え、「思い当たる理由が見付かる」まで、色々な可能性を思い返し、「理由」について分析解析に走る。結果、PCが固まるのと同じで、「意味不明」過ぎて、自分も固まる。意味不明であるから、結論として、「何が言いたい」のか「何がして欲しい」のか全く理解出来ない。

 


真逆な表現とは

普通の人は、人との対応を「正しく理解出来ているか」という観点でいちいち考えずに「反応している」ように思う。もちろん、きちんと分析解析していないので、折々「間違った対応」も多発し、結果、トラブルやケンカが絶えない。そのためか、世の中、「正しい対応」や「正しい理論展開」についての「マニュアル本」が多数出版されるようになったが、人は「感情」で動く生き物であるため、単純な「言動パターン学習」では上手く行かないのかなと思う。

崎谷健次郎も、この問題が深刻で、関わった時も最初は問題無かったが、翌日からはまるで「ジキルとハイド」だった。ニューヨークで会った時は、「全く別の人間」かと思うほど、「極めて高圧的で横柄な態度」に変貌していた。

この人間性は、特に初期の楽曲を聴けば解る通り、愛情面で「真逆の表現」や「両極的な表現」が「崎谷のスタンダード」になっている。かつてメールに「曖昧な表現」なのではなく「同一両極な表現」だと書いたことがある。だから、普通の人間には「愛しているのか嫌いなのかが全く伝わらない」。精神的に「一貫性が無い」ので、作品の全体面でも「一貫性が無い」作品が多い。これを「難解」と評価する人もいるだろうが、「音楽とは大衆文化」であり、如何に「解り易いか」が最も求められる要素になる。「表現の一貫性」は必須に近い。これも、かつて、ポニーキャニオンへ送った手紙に、何度も書いたが、吉國といる限り、絶対に理解出来ないし、自己修正も不可能と思う。

 


DV精神疾患の恐ろしさ

崎谷の「この一貫性の無い表現」は、吉國という「DV精神疾患」の「悪影響」としか言いようが無い。彼女が最初の女性で、早々に「洗脳状態」に陥り、その後も関係を切らなかった結果、それがスタンダートにさえなっている。

具体的に「DV精神疾患」の人の反応について説明すると、こんな感じ。

NYでは、吉國の30歳の誕生日に「バラの花」を送り、目の前で「ハッピーバースデーの歌」を歌った。普通の女性なら「どうもありがとう」と素直に喜んで、花を花瓶に入れて飾るだろう。

一方、彼女の反応は、花を貰って開口一番、「何ぃ?嫌だなぁ。そんなの持ってこないでよ。要らないのにぃ。」みたいな言い方。普通の人は、この段階で「かなり傷付く」か「怒る」と思う。せっかく祝おうと買って来たのだから、腹立って、当然。口に出さなくても「そんな言い方無いよね」となる。「DV精神疾患」は、こうした「人の心理」が理解出来ない。というより、これが出来ない。

それで、そんな「酷い言い方」をしながら、顔は何となく嬉しそうだった。もちろん、「顔も表向きは迷惑そう」だが、「目」が笑っていた。私は、子供の頃から、心理分析を習慣にしているので、「内心嬉しい」が、「天邪鬼な性格」なので「照れてる」のかと思った。ただ、「照れてる」のであれば、最初は「真逆」でも、直ぐに喜んで反省し、「言い方が失礼でごめん」とか言って来る。彼女の場合は、こういう心理は無い。これは「相手に負けてる」のと同じ解釈に成るから。勝手に持って来たんだから、自分が礼を言う必要は無いという考え方。

ただ、一応友人だった人なので、後日「有難う」みたいになり、お返しを持って来てくれてた。この時は、崎谷に関わる前で、少しづつ「変化が見られた」時期でもあった。もちろん、彼女の性格では、「借りを作りたくない」という発想だった可能性も否定出来ないが。

 


DV精神疾患の治療

当時は、私の「知識不足」で、単なる「天邪鬼」かと思った。しかし、吉國の場合は重症の「DV精神疾患」なので、内心は「誕生日に花を貰ってとても嬉しい」のだが、「表現が真逆」になり、「何?、嫌だなぁ。」で、「花をその辺にポイっと投げる」ような扱い。まるで「迷惑だ」という意志表示。ただ、それしか出来ない。

これは、誰かからの「愛情表現」を「真直ぐに受け取った」場合、また、自分が「素直に表現」した場合もだが、その後に「親に殴られる可能性」がある状況で生き延びて来たから、「素直に感情を表現」することに強いトラウマがある。

私は、彼女には「真直ぐ愛される感覚」を教えたいと思っていたので、この時も「相当にムカつく態度」だったし「内心かなり傷付いた」が、それでも、落ち込まず、流されずに、押し返した。

それで「嬉しいでしょ。普通に喜んでよ。」みたいに言って、暗に「この場合は、素直に喜ぶのが正しい表現パターンだ」と提示してみた。その上で、嫌がる吉國に、強引に「ハッピーバースデーの歌」を歌い、手を叩いて「おめでとう」と言ってやった。相当に「戸惑って」いた。そういう扱いを受けたことは無かったのだろう。

私としては、「愛情の正しい受け取り方(表現)」を学習しないと、次に誰かと結婚に至っても、結局、「男を痛めつけて破局する」ことになりかねないと思っていた。彼女には、何度も「貴方の考え方では幸せになれない」と連発していた。時には「貴女は間違っている」とまでかなり強く指摘していた。崎谷健次郎とも基本的にはそれが理由で破局したのは明白だったから、無理にしろ「復縁したいなら」と、事ある毎に「私が手本」を見せていた。その位に重度の「DV精神疾患」だった。

 


愛情に敵意が返ってくる

それで、男性も女性も、こういう恋人と一緒にいると、自分の「愛情表現」に対して、常に、「敵対的表現」が返ってくるので、毎回、深く傷つく。やがて、自分が深い愛情を感じた相手に対して、「素直な愛情表現」をするのが怖くなるし、恋人からの「愛情表現」に対しては、露骨に「迷惑だ」という態度をするようになる。

もちろん、自分の気持ちを素直に表現し、相手から拒絶された場合は「深く傷つく」結果になる。必然的に、自分だけは「傷付きたくない」ので、自分を守り、その結果、相手に対して「敵対的表現」を返して、先に傷付けるようになる。こうして、「DV精神疾患」の人間と恋愛関係を通じて、次の「DV精神疾患」の人間が生れる。こうなると、何を真直ぐに表現しても、何を言っても、自分の「偏向フィルター」を通してしか理解しないので、全く意味が伝わらないし、勝手に誤解を重ねる。

崎谷健次郎も、私が「音楽に利用したいので連絡をして来た」と、自分で直接確かめもせず、勝手に思い込み、それ以外の選択肢を一切考えなかった。吉國に洗脳されていたからもあるが、普段の身近な人間とのコミュニケーションで、自分の感覚も異常になる。崎谷健次郎はその典型例。作品も、だから「意味が良く解らない」ものが多いし、人の心理も正しく解ってない。

 


DV精神疾患と物質主義

崎谷健次郎の「表現の異常さ」は、吉國一己との関係性から生じてしまったものと分析している。ついでに、「DV精神疾患」の人は、愛情の正しい受け取り方が出来ないので、愛情を「物質の量」で図る傾向がある。だから、「愛しているなら、これ遣って。これ買って。」みたいな発想。相手に「甘える」とかいうレベルではなく、「相手がやるのが当然」で、「いかに利用できるか」、「いかに相手を支配するか」という発想で動く。相手を「奴隷」に出来るかが、恋愛と言う「勝負」での「勝ち負け」の判断基準。

アレンジが好きだが、崎谷健次郎も「自分は奴隷」だと歌を作っていた通り、吉國と言う「勝者=支配者」と崎谷と言う「敗者=奴隷」の関係。これを正常な恋愛関係だと信じ込んでしまう。

同様に、吉國の場合も、極めて「物質主義」なので、ニューヨークで「恋愛相談」を受けていた時も、他人の「愛情表現」を「お金の量」で図る傾向が強く、恋人にも「兎に角お金で示す」ことを要求していた。外見は悪くは無いので、男性とは何人も付き合いがあったが、当然、かなり「短期で破局」していた。崎谷健次郎とも数年で別居だったようだし、「仕事」を理由に関係を継続してはいたが、実際には「結婚する以前から破局していた」と思う。

そんな調子では、いつまで経っても「吉國が幸せになれない」ので、ニューヨークでは、かなり「伝授」していたつもりだが、心根が「邪悪である」所は変えようが無かったし、何より数日前の話を完全に記憶してないほどの「重度の記憶障害」だったので、覚えが悪く、物凄く時間が掛かり、結局は、何も記憶していないだろう。それでも、足の大火傷で日本へ強制帰国にならなければ、もう少し面倒を見れたかも知れない。

日本では、「DV精神疾患」については、「行動療法」で暴力を振るう側の治療には「何らかの方法」があるようだが、疾患が生じる原因については、特に研究や発表が進んでいるようには思えない。私の経験と、観察や分析が、今後、こうした精神疾患で苦しむ人々に少しでも役に立てばと思う。何事も、自分で、自分の状況を把握するところからでは無いかとおもうので。

 


崎谷健次郎の治療

崎谷健次郎は、家の前に住んでいたので、吉國に関係なく、どのみち「関わる運命」だったと思う。崎谷健次郎も「かなり異常だった」が、私が手紙に書いていたように、私に会いに来て直接話が出来れば、崎谷健次郎の「心の問題」は簡単に解消出来たと思う。多分、1週間も一緒に居れば、基本「私と同じ人間」なので、本来の「素直な自分」に直ぐに戻っただろう。相手に安心感さえ持てれば、素直に表現することに恐怖感を持つ必要は無い。

話を戻すが、犬は「真直ぐに表現してくる」ので、私としては、余計な詮索をしなくて良いし、余りに真直ぐなので「好かれている」感じも解るので、とても安心していられる。散歩も食事の世話も多少大変だが、自分の愛情表現に対して、真っすぐに愛情表現を返して来るから、気を使うのは誰でも同じだが、兎に角、精神的に疲れない。

「真直ぐな一貫性のある表現」は、崎谷健次郎が、音楽家として、芸術家として、人生で「学び取らなくてはならない課題」かと思う。それは私にとっても、同様であったし、だからこそ、私は学んで来たと思っている。「真直ぐな一貫性のある表現」は「真直ぐな一貫性のある精神性」でしか生み出せない。

 


崎谷の謝罪か刑事告訴か

私は、崎谷健次郎が私に会いに来る予知夢は見た。現実になるかは解らないが、どのみち、崎谷健次郎は私に謝罪しない限り、音楽家としては二度と社会の表に出る機会は無い。当然、直接、私の自宅へ一人で来て、謝罪するのが条件。弁護士経由とは、「反省する気は無い。金払うから黙れ」という意味と解釈するので、その時点で、刑事告訴という選択肢しかない。

問題は渋谷警察署が、私の刑事告訴状を受理するかだが、不受理の場合は、これで、正式に「検察が直接動く理由が出来る」と思う。既に、検察に「送検後の事件であるから、真犯人検挙の責任は検察であり、直接逮捕願いたい」と要請をし、結果、「渋谷警察署へ行ってください」という回答だった。

渋谷警察署が「不受理」の判断なら、検察への交渉を再開するし、私のHPも密かに色んな人が読んでいるだろう。この事件で、渋谷警察署の冤罪捏造により、私は全国規模での不当な誹謗中傷を受けた。渋谷警察の対応については、当然、HPやツイッターで情報発信する。私は無名な唯の人で、心底馬鹿にしているかもだが、社会では、こうした警察の横暴非道に怒りを持つ人々は少なくない。個人レベルでも週刊誌に乗る題材。ここまでの事件であれば、取り上げたい人もいると思う。

私は崎谷健次郎は最初から騙されたと思っているが、そこまで遣った目的は、私の方の「ストーカー真犯人」を刑務所へ送りたいから。2019年の時点で、刑務所へ送れるはずだったのに。警察が全て悪い。「ストーカー真犯人」も未検挙であるし、放置すれば、再度、必ず、仕掛けて来るだろう。

崎谷健次郎が謝罪に来ないのであれば、刑事告訴してでも、白黒をはっきりさせたい。私の無実の証拠は、全て、検察の中に記録されている。警察の「不起訴理由の詐欺」と「再逮捕の脅迫」のせいで、民事も時効。刑事しか決着を付ける方法が無い。

結局、

私の完全な無実は、崎谷健次郎による謝罪、又は、崎谷健次郎の刑事告訴のどちらかでしか証明出来ない。

崎谷健次郎があくまでも「謝罪する気は無い」のなら、「刑事告訴」しか選択が無い。虚偽告訴の事実は事実。確実に起訴され、刑事裁判になるだろう。そこで、検察での私の無実の証明も公開認定され、「ストーカー真犯人」も炙り出されると思う。

当然、「刑事告訴」するなら、二度と「示談」には応じないし、応じられない崎谷健次郎は、実行犯としての科刑となり、鶴崎江理子は共犯として科刑。虚偽告訴は二人とも4回の重犯。執行猶予が付くかは不明だが、数週間から数か月、留置所なり刑務所なりで「自分を反省」して来ると良いかも知れない。

 


ツインレイだからこそ罪を償わせる

私は、崎谷健次郎と自分のツインレイだと思っているし、深く愛しているが、だからと言って、社会的に「犯罪」と定義される罪を犯したのであるから、罪を認め、謝罪し、罪は償うべきと思う。

直接、私に謝罪出来ないのであれば、社会の制度の中で「謝罪と償い」を済ませるべきと思う。それが「ツインレイ」だからこその役目との認識。

真犯人も崎谷健次郎も、大きな勘違いをしているだろうが、私は、初めから、音楽で生活するつもりで生きてないし、崎谷健次郎には「音楽の話」は沢山したが、「音楽が理由」で会いに行った訳では無い。音楽家として「完全消滅」したとしても、それはそれで「人生の学び」にはなるだろうと思う。それに、私に、この期に及んで「謝罪出来ない人間」であるなら、音楽家や芸術家として、作品を公共電波に乗せるべきではない。芸術作品とは、もっと、真っすぐで誠実であるべきものだから。生み出す人間の精神性として、相応しくない。

このブログは、崎谷健次郎は読んでいる。私が敢えて連絡する必要も無い。
だから、「知らなかった」は通用しないし、「私に謝罪しなかった」としても、それは崎谷健次郎、本人の選択だと思う。

 


わんこの芸

友人から「芸が出来る」と見せて貰ったので、私もやってみた。このワンコは、頭が良いので、「相手を見て」行動するところがある。私が指示すると、あんまりちゃんとやってくれない。でも、何となく、その方が、私が笑うと解っているのかなと思う。そう思える相手。

いつか犬を飼ってみたいと思う。猫も嫌いでは無いが、外出も含めて、いつも一緒に居られる存在。私は長い事、自分は猫みたいな人間(キャットパーソン)だと思っていたが、犬を実際に自分で知ってみて、犬型だとつくづく悟った。

私は、自分の主人と、いつも、どこでも、一緒に居たいと思う。だから、ご主人を喜ばす為に「芸をする」という発想。このワンコは、私はご主人では無いけれども、いつも私の役に立ちたいと思ってる感じがあるし、いつも私を心配してくれてる。エサが欲しいだけではなく、「この人が好きだから」で、行動してるし、表現してくる。

私がそういう人間だから、その純粋な忠誠心が理解出来るし、自然と伝わる。だから、とても癒される。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA