自作曲を作った理由

自作曲を作った理由

私が研究した歌唱法では、歌声の構築の後、3オクターブに拡張した歌声で実際にどう歌えば良いのかという「壁」にぶち当たりました。当時、中学時代の同郷の友人と偶然再会し、その友人の伝手で、日本の純邦楽の清元の師匠に弟子入りしました。一度、人間国宝の故清元志津太夫師匠の歌を下ざらいで聴かせて頂きましたが、94歳とは思えない「物凄い声」で圧倒されました。それから、清元の夢中になり、数年は師匠の家に週3~4日稽古に行く毎日を過ごしていた位です。あと1曲で名取りの話も出たのですが、師匠が病に倒れ、清元の道が閉ざされてしまいました。

それで、2オクターブの楽曲が作れる人に会いに行ったら、勝手にストーカーにでっち上げられており、私の話は一切拒絶で、今回の「虚偽告訴事件」と同様に「酷い目」に遭ったので、今回同様、暫く家に籠る事態になりました。その翌年、2000年でしたが、神戸で西鉄バスジャック事件が起き、余りにショックで、17歳の少年に物申したくなり、歌詞を書き、曲が作れるようになりました。

清元は私の進む道ではないから、師匠が去ってしまった気がして、当初の「2オクターブの歌謡曲構想」へ戻ることにしたものの、日本語では、2オクターブ程度で、尚且つ、音程が上下に激しく動くような歌の楽曲は存在し無かったため、自分の練習用に、楽曲が必要でした。神戸の事件で、急に、曲が作れるようになったのは今も不思議に思っています。

私は歌手であり、楽曲制作者ではありません。だからこそ、自分が作る楽曲は、「確固たる目的や意図」がなくてはなりません。他の人がやるべきことを、歌手の私がやるのです。私がやる意味が無くては自分が許せない。

私は、実は、譜面が殆ど読めません。楽器も弾けません。アレンジを完成させるため、ピアノやギターを習いましたが、両腕とも、重度の腱鞘炎です。これで良くここまで作ったものだと、自分でも自分の根性を自画自賛ですが、私が自分の楽曲で音楽家に伝えたいものは、私の、この「作りたいと熱望する思い」かも知れません。この思いが、芸術家の心にある「自分の壁」を壊すのではと思います。

いつか私の「作りたい思い」が誰かを刺激し、私という歌手のために、歌を作ってくれる日が来ることを夢見ています。多分、そうなった時、私は歌手として初めて自分を誇れると思います。

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