りゅうちぇる氏の自殺

りゅうちぇる氏の自殺

先日タレントのりゅうちぇる氏の自殺報道を知った。彼はLGBTであると告白し、それに不快を覚える一般大衆から深刻な「誹謗中傷」を受けていたらしい。私は芸能人では無いが、芸能関係者に「ストーカー犯人」にでっち上げられ、虚偽告訴されたことで、そいつとコネのある「フジテレビ」に、一日中、延々と「虚偽報道」を繰返された。結果、真相や真実を知らない一般大衆や、善人面した虚偽告訴犯罪者のファンや音楽関係者に、全国規模で誹謗中傷を受けた。

私は完全に無実である。悪いことや法律に反することなど、何一つ、していない。私の逮捕は、渋谷警察が違法行為(冤罪捏造)を行った事で実現しただけである。日本の冤罪は、検察では無く、警察が証拠をでっち上げることで生まれる。私は、送検後に、警視庁の刑事に「やりましたよね」と冤罪自白を連日迫られたが、検察で、ストーカー電話被害の犯人を突き止めてくれたので、正式に無実となった。しかし、警察が不起訴後も「虚偽告訴犯罪者の犯罪隠ぺい」に加担し、私を騙したため、虚偽告訴犯罪者の検挙に至らず、こいつらは虚偽告訴を4回も重版するに至った。

本題に戻るが、自分が悪くないのに、誹謗中傷を受ける屈辱と怒りは、私が誰よりも理解している。だから、事件サイトを作った。私の存在は、フジテレビの虚偽報道で悪名を着せられた際、多少、社会に認知され、その後は誤解を受けたままであるし、完全に無名である。

しかし、無実にも関わらず誹謗中傷を受けた「被害者」として、また、「被害者」だからこそ、一般社会で、迂闊に誹謗中傷を繰返す連中に対して、警告を発する資格があると思っている。

木村花さんや今回のりゅうちぇる氏のように、単なるインターネットの書込みでも、自分の書いた内容で「自殺」するような事態が起きたとすれば、そういう書込みをした奴らは、自分が「人を殺した」と思うべきだ。

私の場合も、人々が、ネットやテレビなどマスメディアの「出所の明白でない情報」に流され、特に、私の場合は「フジテレビの大嘘報道」を流し、虚偽告訴犯罪者のファンを中心とする人々から、誹謗中傷を受けた。私は自殺しなかったが、自殺寸前まで追い詰められた。事実を自分で確認した訳でもなく、私の方の事情も知らず、良くも、「こいつ、クソが好きだろう」的な言葉を平然と言えるものだと思った。それも、自分の名前も顔も伏せて。言いたい事があるなら、「直接言いに来い」と思う。

私は、名誉棄損もストーカー行為も一切していない。ストーカー被害者として、崎谷健次郎という「ストーカー加害者」の行った「虚偽申告」と「虚偽告訴脅迫ライブ」が継続したため、あくまで、事件について「真実と推理を暴露した」に過ぎない。「虚偽告訴」と断定出来ない時点では、インターネット上へ発信する情報も制御する必要がある。職場前ライブのことは、敢えて、発信し無かった。

この事件は、警察が「虚偽告訴犯罪に加担」せず、検察と同様に、私の自宅と携帯に掛かる不審電話の発信元を捜査すれば、私が逮捕されることは絶対的に無かったし、あいつらを犯罪者として法の裁きに掛けることが出来るはずだった。

その後も、当然、虚偽告訴犯罪者の崎谷健次郎も渋谷警察の連中も、自分達の悪行については、一切、謝罪しない。誹謗中傷した人間達も、ほぼ全員、謝罪の言葉は無かった。悪い奴らは、悪事が露呈し、社会的な制裁を受けるまで、決して「ごめんなさい」とは言わない。

ツイッターや直接メールで、何度も「削除要請」を繰返し、幸い、多くの方々が応じてはくれたが、何度メールしても「応じない人間もいた」した。また、安易で、独断的な記載を謝罪した人間は、殆どいなかった。一般人は、自分がやられる心配は無いから、遣りたい放題でも「罰は受けない」という認識だろう。

私も相当追い詰められたが、私は、木村さんやりゅうちぇる氏のように、「自殺」はせず、最終的には、生存し、あいつらと「戦う道を選んだ」が、高齢の母が危篤にならなかったら、自殺していたと思う。毎晩、8階下の駐車場を何度も見下ろしていた。

余りの屈辱と無念と怒りに、飛び降りて、顔面が完全に潰れ、自分の脳みそと真っ赤な生血が、地面に飛び散る様を想像して生きていた。その姿を、虚偽告訴犯罪者と犯罪者警察官らと、誹謗中傷した人間達に、見せてやりたいと思った。残念ながら、その駐車場は表通りには無いので、飛び降りて、顔面ぐちゃぐちゃ、手と足が真逆に折れ曲がり、それを見た人間が一生悪夢にうなされるような「完成度の高い破壊状態」になれたとしても、写真を撮って、インターネットやYouTubeで全世界にバラまいて貰える保証は無い。

どうせ「自殺」するなら、虚偽告訴犯罪者夫婦や弁護士や警察や誹謗中傷した連中や事件関係者だけでなく、家族や友人知人やその先の人々も含めて、「お前ら、我が、末代まで祟ってやる」と、全員に「私の怨念」を知らしめた上で、自分の最も悲惨で陰惨な「死体」を世間に晒し、こういう事態を生み出した日本人全員の目に生涯、焼き付くような方法で、死んでやろうと思った。

 

私は、外見と違い、特攻隊の先陣を切るような性格の人間なので、自殺行為であれ、一命を投げ打つのであれば、最大限の攻撃を図った上で行う。特攻隊は「無駄死に」では無かった。たった一機で、仮に撃墜されたとしても、敵船に落下か、付近で爆破するだけでも、敵の船体に穴が開けられる。たった一人で、敵の戦艦を航行不能にし、乗船する敵兵を、上手くすれば数百人は焼き殺せる。

たった一人の無名な操縦士だと、大いに馬鹿にしていた「敵国の大集団」に致命的な損傷を負わせるには、一命を投げ打ったとしても惜しくは無い。私は、こういう発想の「六根清浄」な「純血日本人」であるので、「自殺」して無念を訴えるのであれば、十分に意味のある「自殺」をするつもりでいる。

こいつらは、2019年の虚偽告訴犯罪の前に、2018年の段階で一旦虚偽申告という犯罪を犯した。2018年の段階で、渋谷警察から「事情を聴きたい」を言われて任意出頭をしたが、私は当然「自分はストーカーでは無い」旨を、文書にして、渋谷警察署に提出した。初めから、虚偽告訴が目的で、職場前ライブを遣っていたのだから、渋谷警察では「冤罪自白の強要」を受けることは想定していた。

しかし、単に警察に「事情を話に行った事実」だけで、虚偽告訴犯罪者は弁護士を雇い、渋谷警察が「警告を出した」と「大嘘」を記載して「警告書」を送り付けて来た。当然、私も弁護士より、「崎谷健次郎の職場前ライブをストーカー行為である」と認識していた旨は正式に告げた。

そこまで通知すれば、当然、年末は汐留からは立ち去ると思ったが、虚偽告訴が目的であるので、その年も、汐留で私の誕生日にライブを行った。2019年の3月に、渋谷警察署に「ストーカーの捜査」を依頼に行ったが、この時点で、「お前がやった」と完全断定され、事件捜査依頼を拒否された。そのまま放置すれば、偶然を装って接触して来た上、虚偽告訴されるのは時間の問題であるし、こいつらに、一生、ストーカーだと冤罪を着せられたまま、虚偽告訴の脅迫に晒される。そのため、事件を裁判所(民事)か検察に持ち込み、自分の無実を証明しようとした。

あいつらにはストーカー被害の証拠など存在しない。民事で訴えれば、必然的に、私の方の不審電話被害の発信元が発覚し、敗訴する。だから、「買収し易い」警察を利用して、刑事へ持ち込み、私をストーカーにでっち上げようとした。自分達のストーカー加害行為を隠ぺいし、私を完全に潰す目的でだ。韓国ドラマでは、財力の有る「悪人」が良くやる手口で、流石、韓国系は遣り口が半端なく汚い。

自殺して無実を訴える

本題に戻るが、2018年、あいつらが「虚偽被害」を訴え、渋谷警察を使って「冤罪」をでっち上げ、警告書を送り付けていた際に、私は、余りの怒りと屈辱から、「自殺して無実を訴えよう」と思った。

この時は、渋谷のハチ公の警察署の前で、灯油をかぶって焼身自殺してやろうと思った。「崎谷健次郎はストーカー犯罪者です。私はその被害者で無実です。無実を訴え自殺します。」と、プラカートに書いて、大声で叫びながら、死んでやろうと思った。

だが、よく考えたら、事情を全く知らない「その辺の人間」が聴いたとしても、私が無実である証明も証拠も提示出来ていない状態では、結局、2019年の事件の通り、こいつらの都合の良い様に「話をでっち上げ」られる。結局、自殺してしまえば、「死人に口無し」でしかない。自殺までしたのに、犯人にでっち上げられたら死ぬ意味が無い。

だから、渋谷ハチ公交番前での焼身自殺は止めた。そこで、一旦、あいつらが、年末の職場前ライブをどうするかで、自分の出方を決めようと思った。私への「嫌がらせ行為」を止める見込みが無いので、次の段階へ進んだ。

私の正当防衛ブログを「ストーカー行為」だと渋谷警察に虚偽告訴に行ったとしても、警察としての「正当な段取り」としては、まず私に対し「ブログの削除要請」をするべきである。私の方は、「ブログの削除要請が来た」段階で、今度は、私の方が「虚偽告訴された」として、警察に刑事告訴が出来る。ここで、私の方が、事前に、4年掛けて溜めて来たストーカー不審電話の履歴を警察に調査依頼すれば、犯人が誰かは簡単に突き止められる。あいつらが逮捕送検になるはずだった。

残念ながら、警察は、ブログの削除要請もせず、事情聴取の要請もせず、いきなり緊急逮捕し、ブログを書いただけで、1時間後には送検した。検察へ行けば、普通の捜査が行われ、必然的に、嫌疑不十分で不起訴確定は必須だ。不起訴になるのを想定していて、その間、虚偽告訴犯罪者は、フジテレビのインタビューで、私がストーカーだと全国の大衆に向って大嘘を吐いた。当時、「送検後の違法取調べ」をしていた警察本庁の刑事らに、「あいつ、馬鹿じゃないの。呆れてものが言えない。」と笑ってやった。刑事達もクソ馬鹿なのか、本気で「冤罪が着せられる」と信じていたらしく、刑事達は私の言葉を理解しなかったが、今、私の事件サイトやブログを読めば、私の言葉の意味は理解出来るだろう。覚えているかは不明だが。

私は、実は、崎谷健次郎のことは最後の最後まで信じていた。信じていたかったに近い。それが、ああいう卑劣極まりない手口で陥れられ、虚偽告訴され、ストーカー犯人にでっち上げられた。だから、「自殺して無実を訴える」覚悟で、ブログの実名告発を行った。渋谷警察の犯罪隠ぺい工作のお陰で、虚偽告訴犯罪者は未検挙だが、警察が二度と冤罪捏造出来ない「証拠」を確保した。その後は、私は、自分の無実を訴えている。

あいつらが「罪を認め」、私に謝罪するまで、私は自分の無実を訴え続ける。自分の名誉は自分で守る。最終的には、「一命を持って無実を訴える」事態となったとしても、罪人への懲罰に至る道を最大限追及するだろう。

サバイバーであること

私は、あれだけの卑劣な仕打ちを受けたが、それでも、自殺をせず、生き残って、自分を陥れた奴らと戦っている。私のストーカー被害は27年は続いていた。私は、そんな苦境を生きて、自殺寸前まで追い詰められて来た。だから、私と同じように、苦境に陥り、それでも生き延びた人々に会う度に、「我々は、サバイバー(生存者)だから」と言っている。サバイバー(生存者)であるから、サバイバーとして、これからも生存する道を選べと言っている。

だから、木村さんの件も、りゅうちぇる氏の件も、サバイブ(生存)出来なかった「仲間」として心痛を禁じ得ない。先日は、市川猿之助氏のご一家も心中を図ったが、一般社会の人々の誹謗中傷が最大の原因である事は明白である。もし、個人的に知っていたら、「サバイバーとして生存する道を選べ」と言っただろう。

基本的人権で「言論の自由」は保障されている。しかし、繰り返すが、自分が発した言動で、誰かが自殺したのであれば、法律的には無実であり無罪であっても、人を殺そうとしたことに変わりは無いし、私は実質的な殺人行為だと思っている。誹謗中傷される側の人間には、そういう(お前なんか死ね)という意味を持つことを知っておくべきだと思う。

私を誹謗中傷した連中もだが、「加害者」にとっては「加害は一時のおふざけ」であっても、やられた「被害者」にとっては「一生続く心の傷」だ。これは、自分がどういう意図だったに関わらず、誰かを傷付ける行為だと認識すべきである。ストーカー行為も同様である。遣った側は何も考えてないだろう。だが、人生が完全に狂うような悪事である事は常に起こり得る。私は、夜中のワンギリでは、不眠症状に陥るほど苦悩を感じていたし、職場前ライブでは、2019年の事件のように「血祭り」状態の嫌がらせを受ける恐怖でポリープが出来るほどだった。

インターネットやツイッターで、芸能人であれ誰であれ、批判的なことを書くのであれば、何度も内容を考え、それを「他人のあなたが書くべきなのか」を考えた上で、本来なら、私の様に、実名で告発すべきだろうと思う。実名で告発し、正々堂々と、裁判で争えば良い。それだけの内容ならば、情報発信すべきであるし、迂闊に誹謗中傷する前に、「他人のあなたが言うべきなのか」考えてから発して欲しいと思う。

私は、誹謗中傷被害の生存者だが、自殺については、自殺するのは個人の自由だと思っている。自殺するかは本人の決断であり、私は自殺したいなら、その判断を尊重するし、止めない。ただ、自殺すると、私の仲間(サバイバー)が減るので、寂しいと思うし、悲しいと思うから、「私を悲しませないで欲しい」と思う。

他人で会った事もなく何も知らない人でも、虐めや誹謗中傷を苦にして自殺する人を知れば、私は悲しみで涙を流す。りゅうちぇる氏についても、テレビなどで顔を見たことがある程度しか知らない。それでも、悲しかった。生き残れなかったことを知って悲しかった。木村さんのことも、今も、悲しい。悲しいから、事件サイトを作って、私自身を世間にさらす。私自身の悲しい人生と最も恥ずかしい事実を世間にさらして、誹謗中傷するなと言いたい。

そして、それでも自殺を選ぶのであれば、私は止めないが、「ただ死ぬ」というような選択はしないで欲しいと思う。単なる自殺はすべきじゃない。本当に逃げ場が完全になるなるまで、這いつくばって、恥を晒しても、サバイブして、ぎりぎりまで戦って欲しいと思う。

言葉で人を殺す犯罪

かつて、虚偽告訴犯罪者の元妻韓国人が、高校教師に連日罵詈雑言を与え、最後に「お前なんか死ね」と言って自殺に追い込んだことを私に自慢げに話した。そして、「人は簡単に死ぬんだよ。面白いから、〇〇ちゃんも、やってみれば」と嬉しそうに笑う顔を見た。死霊が纏わり付く人間だったので何かあると思ったが、流石に背筋が凍った。

そして、この時、言葉で人が殺せることを知った。誰かを批判したい時はあるだろう。だが、誰かを言葉で殺すような人間にはならないで欲しいと思う。私もやられたが、言葉で人を殺せることを日本人全員が自覚すべきだ。そして、日本人は、そのような人間には決してなってはいけない。

LGBTについては、私は、否定的である。理由は、「魂に女も男も無い」からである。これについては、後日、意見を述べたいと思う。ただ、男装も女装も、自覚的な男女認識も、他人には問題でなくとも、本人達にとっては大きな問題であり、物凄く悩んでいて、物凄く悩んだ結果として、ああした「表現」になっているということは、日本人全員、理解すべきと思う。

悩みが解消出来れば、どちらの性であれ、自殺することなく、サバイブ出来るのではないだろうか。

私から言えるとすれば、「魂には女も男も無い」という事だろう。男女の区別は肉体が区別で生まれる。本当に魂が男なら、女という肉体を楽しむ事も出来るし、それで学ぶことは非常に多い。魂が女なら、なぜ男の肉体に入ったのか意味を考え、男について正しく理解し、男でいることを楽しむ道を見付けることは可能だろう。

私は「神道の行者」であり、神への道を歩く者の一人として生きている。少なくとも、そう自覚している。魂には、確かに、男らしい魂も女らしい魂もある。男神と女神もいる。だが、神とは、実際には、男であり、女であるもので、また、男でも無く、女でもない存在である。それ以前に、神の光は、光であり、形は無い。そして、人間であっても、女であれば、その子供としては男も女も選べない。男でも女でも愛するのが女だろう。

「魂には女も男も無い」

自分の魂が別の性の肉体に入ったと感じたとしても、それでは、その「間違い」としか思えない事態で、何を学ぶのか、何を経験するのか、そこを考えることは無いのだろうか?

肉体や形ではなく、魂で、人を愛することは出来ないのか?

私は、女として生きることを決め、女として修業している。

 

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