アヴェ・マリア(カッチーニ)

アヴェ・マリア(カッチーニ)

昨年、音楽活動を復活させた。2019年の事件は完全な冤罪だったが、フジテレビのデマ報道のお陰で、今井貴水という名前はすっかり汚されてしまった。音楽は楽しいものであるべきなのに、今井貴水を検索すると「不快な事件」の情報が未だに上がってしまう。この事件では、最も悪質だったのは「警察」だから。この事件を引っ込める気はないが、崎谷とはこれ以上争う気は無い。世の中、喧嘩両成敗。99%相手が悪かったとしても、1%は私にも非がある。物事はそのように公平に考えるべきだから。

なので、別のアーティスト名で活動している。具体的な活動内容はここには記載しないが、歌を歌った音源を公開している。また、私は自分が研究開発した3オクターブ歌唱法を世界中に普及したいという希望がある。3オクターブ歌唱法の本は2023年にキンドル出版済みだが、当時は、敢えてかなり細かく難解になるよう製作したので、今は、もっと解り易いように少しずつ書き直している。先月、初心者向け紹介本を電子出版した。もうすぐペーパーバックだが紙の本も出版する。あとは私が具体的に人前で歌を披露していけば良い。今後は出来る限り早い時期に、ライブ活動を始めたいと思っている。今年はバンドを組むのが目標ですかね。

自分の歌唱法の課題曲に何曲か作ったオリジナルがある。以前のHPでは紹介していた。私の楽曲は日本の音楽に多少は良い影響を与えられたかと思っている。2019年の事件の後から、急にメロディ音域の広い曲が多くなって来た。もちろん、私のアイデアをフルに盗めた訳じゃないから、どれも中途半端で、その後は続かず終わった感じですけど。歌い方を根本から変えない限り、次のステージには進みようが無いからね。全員が次のステージに進む為に、私は自分の歌唱法を世間に広めて、超人歌手を育てたい。音楽業界も、1人で良いから、超人的な人間がいると、一気に勢い付く。ということで、いつ心臓が止まっても良い様に、私は今後も自分の歌唱法のデモを色々残していこうと思ってます。

という事で、Ave Mariaを歌ってみたので、ご縁のある人に聴いて貰えればと思います。

 

 

この曲は、音域的に、最高音は「A5」で、まあ高いけど、メロディ自体の音域は決して広く無い。メロディも単純でまるで音階練習のよう。その一方、歌詞が「アヴェ・マリア」しかなく、殆どが「ア」のロングトーンの連続なので、気が抜ける所が無い。歌のモチーフは、「女神へ捧げる歌」だから、どこまでも神々しくなくてはならない。曇りの無い、澄み切った心で、どの1音も、「この1音が全て」という緊張感を保って歌わなくてはならない。わずかな「傲慢」も「自慢」も「自負」さえ、「心の穢れ」として表現されてしまいそう。

オペラ発声では、単音のロングトーンを揺らして歌うが、私は純日本古典的発声に基づく、まっすぐに歌う。まっすぐに青い空を抜けて、その先の天域へ声が届くのを願う。だから、この歌は「祝詞」を唱う時に感覚が近い。祝詞に比べたら全然短いけれど、1音1音乱れず、最後まで澄み切った心のまま「ただ歌う」ことを求めらえる。この曲は、ソビエトのウラディーミル・ヴァヴィロフという作曲家が作ったと言われるのですが、兎に角、本当に難しい。何度歌っても、十分に満足した歌にはならないけれど、試行錯誤を重ねた結果、やっと人に聴いて貰えるレベルにはなったかと思います。

それで、私は、この歌を崎谷健次郎に聴いて貰いたいと思っている。
何か、私のブログは読んでるくさい。

崎谷は、私を陥れ冤罪を着せた極悪人だが、それも含め「神様のご縁」で関わった人間である事に変わりはない。父が他界するまで家で歌うと怒鳴られた。そんな自分がなぜか歌を歌う才能を持って生まれてる。結局、私は、深刻なうつ病で、歌が唯一自分を救う方法。歌わないでいられない。出すと言う意味ではトイレに近い感覚。何でこうなのか自分でも良く解らない。

崎谷とは不思議な縁で会った。NYで元妻韓国人に騙されて会う事になったが、元妻が異常に連発していた通り、確かに「まるで自分」だった。目の前に分離した自分がいる感じだった。私は神道の行者だし神の光も知っている。霊感というより霊力があると思っている。不思議な事も折々起こる。神様は信じているというより「一緒に居る」に近い。だから崎谷は自分にとって「運命の人間」と思って来た。後で知ったが、そういうのを世間ではツインレイとか言うらしい。そういう人間と会った時は色々と有得ない偶然が起きるらしい。実際に、その時、崎谷は私の自宅前に偶然住んでいた。これは事実で否定しようが無い。作曲家と歌手なのも当然意味がある。

人間は物事が上手く行かないと「神様が間違えた」とか「神様のいたずら」とか思ったりする。でも実際には、神様は絶対に「間違えない」し、いたずらもしない。「全て正しい」し「全て必然」。むしろ「全て必須」である。偶然が幾つも重なる事など無い。今は、神様という存在を宇宙人だとか考える人も多いが、私は何か人間を動かす存在があるように思えてならない。動かす為に「人と人の縁を司る」というか。神様は何もしない。するのは人間。そこへ向かう為に「人と人と出会いは準備」するだけ。何を選択するかは常に人間に委ねらえる。

だから、神様は「絶対に間違えない」前提で、私の何が間違っているのか、又は、間違っていたのか、私はどうあるべきなのか、その観点で自分に起きて来る事を見つめ直し、自分の行く道を修正していかなくてはならない。

私は、つい先日まで、彼らをとても怒っていた。その一方、時々、なぜここまで拗れたのか、原因を振り返り分析はしている。結論として、私の悪かった点としては、「私は崎谷にやさしくなかった」という事だと思っている。

崎谷の事は韓国人元妻から散々聞かされていた。ああいう邪悪な人間と久しく居れば、嘘を吐いて自分の身を守る癖が付いたとしても不思議は無い。私は幼少期から山修業をしている身。6歳か年上の気の強い女に、普通に「貴女は間違っている」と連発し、当時は、腐り切った魂を鍛え直そうとしてた。要は救えないか真剣に取り組んでいた。自分の学業を犠牲にして。最終的に「救ってはいけない」と結論し手放した。崎谷が余りに自分にそっくりだったので、自分と同じ強靭さと潔癖さを期待したと思う。結果、普通に許せる下らない嘘を見逃せなかったし、韓国人的な二枚舌が穢わしいとさえ思った。

今思えば、何か素直に表現してしまい、私に否定されるのに耐えられなかったのかと思う。その位、内心、脅えて生きていたのかも知れない。私は狂気な韓国人元妻から話を散々聞いていたが、崎谷の中に深く染み込んだ「人に対する恐怖」とか強い言葉に「脅える心」とか、そこまでは察してやれなかったと思う。私自身も未熟過ぎて、意図なく、無意識に、傷付けてしまっていたかも知れない。

同時に、私は歌手として実力はあったけど完全無名で、崎谷にとっては「役立たずな存在」だと自分を卑下していた。ついでに病弱だし。心臓の弁が緩くて逆流が起きてる。日常生活は問題無くても、普通の人の様には出来ない。騙し騙し生きてる。心臓の筋肉を弱らせないために運動が必要だが、少し度を超すと過労になって寝込む。弁膜症はやっかい。急に動けなくなるし、心臓止まったら数分でお陀仏。人生にいつも不安を抱えてる。私の身体は欠陥品。普通の人には付いていけない。職場では超優秀で重宝されてる一方、相当無理している。週末は音楽で平日は10時間労働。調子乗っていると疲れ切って身体に震えがくる。寝込む。無理やり起きて仕事行く。完全に障害や病気まで行かないから尚更やっかい。医者も何も出来ない。倒れた時が最期に近い。自分の歌唱法を広めたいが、心臓と常に相談。なので予定がどんどん押すし、匍匐前進。こんな身体だから、内心は、劣等感を感じてる。だから、負けまいと思い、素直に「助けて下さい」と言えなかったし、縁を切ることを先に考えてしまう。

だから、2人目の元妻と結婚したと聞いて、自分は引くべきと思った。子供作って家族を持って幸せな家庭を築くチャンスを得たなら、幸せになって欲しいと思った。私は「役に立てる人間」にならなくてはと歌の修行をしていたが、そういう話になってしまった。内心、本当には愛せないだとうとは思ったが、本人の選択なのだから致し方ない。だから、私は、絶対に近寄ってはいけないと思い、離れるように離れるようにしていた。でも、所詮、男と女なんて、一緒に居れば、相手がどう思っているか気が付く時が来る。2人目の元妻も、相当に辛い状況に陥ってしまったのかなと思う。愛情無いのに、経済的には依存。普通に地獄。

私は知らないで結婚直後に連絡してしまったようだった。その後は「壊してはいけない」と思って苦しんでいたが、普通の人間とすれば、そんな配慮は理解出来なくて当然。せっかく結婚出来たのにどん底に落とされた気分だったのでは。いつ知ったかは不明だけれど、実際には、夫(元夫)が、私の職場の前でライブとかしてて、自分も企画に関わってたとすれば耐え難かっただろう。表向き社長で良く見えても、実質的に相当辛い人生になってしまったかも知れない。だから、「被害など何も無い」と知った上で警察に被害でっち上げた訳で、そこまで腐った真似をしたのも、それだけ傷ついて孤独だったって事かなと思う。ある意味、私が判断を狂ったことで、可哀想なことをしてしまったかなと思う。結論も結果も見えていて、放置した。

 

私は、今年、木曽の山へ久しぶりに戻る。あの山は神の山だから、真っすぐで美しい心で行かないとならない。もう何年も、自分の霊気が怒りの炎で燃え盛っていたけれど、行者としては「すべからく静めし。静まることを掌るべし。」で、炎を収めなくてはならないし、収めることにした。深い深い森の静まった青い泉の様な気持ちでいないと、山の者を傷付けてしまう。 私がストーカーしたと言いたいのなら、それで良いと思う。謝りたくないなら、それもしなくて良い。普通に穏やかに幸せに生きていてくれれば、それで良い。

私は、崎谷健次郎の作った歌を歌いたくて歌唱法の研究までしてたし、崎谷健次郎の弾くピアノで歌うのが長年の夢だった。越路吹雪みたいになりたかった。プロデュースにしても、本音はお願いしたかった。助けて欲しいと思っている。当然だろう。自分が一番信用して信頼している音楽家なのだから。頼みたいと思って何が悪い。実際には頼んでないというより、自分の歌が下手な気がして恐れ多くて頼めなかったに近いだけ。崎谷なら、私の才能の全てを精一杯に引き出せるから。もう一人の自分だから、必然的にそうなる。なので、相談したかった。

世の中、自分がそう願ったからと言って、相手が動くとは限らない。遣りたく無いなら、強要も強制もしないし出来ない。ただ願うのは自由だから。愛しているからといって、愛されるとは限らない。自分を愛さないからといって、恨むことは間違っている。自分は自分。相手は相手。それが神道の道を行く者の発想。だからこそ、同じ志を持てるとすれば極めて貴重と思うし、同じ志を持ちたかった。

 

山へは9月に出向く。

それまでに、心を治めて、アヴェ・マリアの歌を練習し更に磨きたいと思う。
バンドメンバーを見つけてくれるよう祈りたいと思う。

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